松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市東区馬出2丁目 翁別神社


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市営住宅のなかにある真新しい神社です。境内を歩いていて気づいたのですが、どうやら平成になって改築され、社殿は新調されたもののようです。

まずは境内にある案内板を文字に起こしましたので、それをお読みいただきたいとおもいます。

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翁別神社の由来

寄せては返す白妙の波に続く千代の松原は、名実共に風光明媚の海岸であった。
三韓征討(西暦二〇〇年)の時神功皇后がこの箱崎浜に趣かれた際に武内宿弥はお供して、草木が繁る大自然の小高い丘の清水湧く鏡のように清く澄んだ小池の水に舌鼓を打たれ翁別神社の銀杏の陰で小憩されたのであります。
それから約六百七十年後、この箱崎一帯の浦に鶴が啼き渡って葦津の浦と呼ばれた頃、ここに老境に入っても子が無いために嘆きの漁夫がいた。筥崎宮に日参して「子が授かるように」と祈願を込めたその甲斐あって満願の日に懐胎して元慶四年八月十六日の夕、女の児が誕生したので、月に縁の「十六宵」と名付けられ神の申し子と愛で育てられた。十六宵は美しく成長して五才の春、丘の小池に水鏡して黒髪を梳るのが常であった。その水は甘露の味がしたので、里人はこれを鏡の井と称した。
やがて十六宵が十三才の時、その麗しい容姿は一入優れ筥崎宮に下向の宇多天皇の勅使の耳に入り、遂に召しだされ十六宵は官女=白梅姫となり内裏に宮仕えすることになった。その後白梅姫(十六宵)の艶な姿に想いを寄せた北面の武士高丘蔵人と夫婦の契を結び、都を辞して懐かしの故郷に帰った。
その頃延喜元年藤原時平の讒言により、筑紫の太宰府に配流された藤原道真公の身辺には敵の危害が迫っていたので宇多法皇は御宸慮を煩わされ使を以って高丘蔵人と十六宵に警固を命ぜられた。その護衛に苦難の日が続いたが、やがて延喜三年菅公死後十六宵夫婦は法皇に報告のため、老松若松二人の子供を翁父母に預けて都に上り、後仏門に入って須磨のあたりで一生を終えたと云う。
高く聳える千古の銀杏の陰に鎮座まします翁別神社は、武内宿弥とこの土地に縁の深い松の翁と白梅姫と其の一族を祀った宮で、社前の鏡の井は、今も昔を物語るかの様に其の名残をとどめている。 

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村社 翁別神社

一、祭神祀 武内宿禰

一、由緒
右老ノ国碑ニ神功皇后三韓征討ノ時紀武内宿禰供奉ニテ此処ニ小憩セラル、故ニ之ヲ祭ルト云フ又松ノ翁、白梅姫ト云ヘル者ノ霊ヲ祭ルト云ヘリ延喜三年創立、明治五年十一月三日村社ニ定メラル
(註)記録本文中に白梅姫とあるのは十六宵のこと

略歴
一、武内宿禰、翁別神社の地に小憩せらる。西歴ニ〇〇年
一、十六宵(白梅姫)元慶四年八月十六日の夕 誕生。西歴八八〇年
一、十六宵 宇多天皇に召しだされて官女白梅姫として内裏に宮仕へ。西歴八九ニ年
一、宇多法皇の命で十六宵夫婦は、筑紫に配流された菅原道真公の警固に任に当る。(延喜元年)西歴九〇一年
一、菅公の死去を報告のため十六宵夫婦は都に上る。(延喜三年)西歴九〇三年
一、翁別神社 創立さる。(延喜三年)西歴九〇三年
一、翁別神社 村社に定めらる。西歴一八七ニ年 

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十六宵遺跡 鏡の井

平安時代のこと、元慶四年(八八〇)八月十六日の夕刻、この芦津浦の海人の苫家に一人の女児が生まれ、十六宵と命名された。この子が七歳になるとき、浜辺の小高いところにしぜんに清水が湧き出したが、その清らかなことは明鏡のごとく、その味は甘露のようであった。
十六宵はいつもこの水を汲んで髪を梳り、容姿を整えていたので、人々はこの池を鏡の井といった。そののち十六宵は輝くばかりの美女に成長したが、宇多天皇の御代寛平六年(八九四)三月、彼女が十三歳のときのこと、都からくだってきた奉幣使の橘卿は十六宵のことを聞き、彼女を官女にしようと都に伴うことになり、彼女の姿はこの浦から見えなくなった。すると、今まで湧き出していた清水はすっかり枯れて、池の跡はもとの砂浜になってしまった。そののち年を経て、陰陽師阿部晴明が唐からの帰朝の途次、この浦に立ち寄って鏡の井を尋ねたが、誰もそれを知る者はなかった。
そこで晴明は携えていた杖を呪文を唱えながら空中に投げると、不思議にも杖はたちまち白龍に化して地上にくだるとみるや、大地は振動して裂け、清水が噴き出して空中高くほとばしり、龍は水に躍って水底に姿をかくした。晴明はこれを見て、これこそ昔の鏡の井であるとて、石を集めて井筒を築いた。これからこの井戸は干ばつにも枯れることなく名水と伝えられた。天正十五年(一五八七)に豊臣秀吉が博多を訪れ、千代松原で茶の湯の会を催したとき、随行の千利休はこの井戸の水を汲んで茶を点じて秀吉に奉ったということだ。

右の文章は、石碑に刻まれたものを元に書き表したものです。この石碑は大正四年、大正天皇の御即位記念に作られたもので、昭和六十三年、福岡市住宅改良事業の際に翁別神社の境外より移設されております。
また、石碑の裏には左記の和歌も刻まれており、千年以上を経た現在でもその清らかな水を湛えております。

利休水を汲みて

蜑可子能 さか可美うつす浦なれば 水を鏡と云ひやそめ希む 

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社殿には三階松紋が彫られています。宮地嶽神社の紋章です。このことから、この翁別神社で祀られているのは、記紀で武内宿禰と合体されてしまった高良玉垂命であることがわかります。
安倍晴明が唐に渡ったかどうかは確認できず、龍の話は後世の創作と考えてよいでしょう。

ただ、ここが三階松紋を戴く玉垂命の一族の祭祀であり、後世、その系統から白梅姫なる人物が登場したことは、疑いないようです。

福岡県神社誌:上巻84頁
[社名(御祭神)]翁明神社(紀武内宿禰)
[社格]村社
[住所]福岡市大字金平字浄金
[境内社(御祭神)]記載なし。
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.01.25訪問)