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社格が「村社」とされた神社にもいろいろあるのですが、郷社や県社でもこれより小さいところはありますから、どれだけ地域に資力・財力があったのかとおもわず考えてしまいます。とにかく立派で、境内もひろく、おそらくむかしは三島明神として境内に多数の建物があったことでしょう。
楼門にある看板です。
西牟田氏は藤原北家流で関白藤原道隆の後裔とされ、西牟田彌次郎家綱入道藤原行西が、幕府の命を受けて嘉禎年中(1235-1238)、豆州三島より筑後国三瀦郡西牟田村に地頭として来住し、堡を築き、村の名前の「西牟田」を以て称号としたという。
筑後市西牟田の寛元寺は、西牟田入道行西の願によって寛元元年(1243年)に建立され、三潴郡大木町蛭池の三島明神は行西が伊豆国三島から勧請したものとされる。同様に、筑後市西牟田地区の三島宮(現在の三柱神社)、鷲寺地区の霊鷲寺、流地区の天満神社、正覺寺(現在は廃寺)等も行西の建立と伝えられている。
つまり、伊豆から赴任してきた支配者が持ち込んだ祭祀を、この地のみなさんは800年近く、みずからの祭祀として祀ってきたということになります。
あらためて福岡県神社誌を読み返すと、筑後市西牟田の町区にある三柱神社を「下の宮」と記載しており、どうやらこの三島神社と三柱神社は、もとは一体として運営されていたことがわかるのです。
昭和28年町村合併促進法が施行されるに及び,計画では三潴村・犬塚村と合併することになっていたが,当町においては北部地域(犬塚村側,町の半分の地域)が農村地帯であるのに対し,南部地域(筑後市側)が織物工業・商業に従事する者が多いことから,住民は犬塚村と筑後市を希望する者とに分かれ紛糾。
(略)
県は西牟田町を筑後市に編入する申請書の処分を保留し,斡旋に努めた結果,3月に至り,西牟田町の境界変更を速やかに筑後市議会の議決により行うという覚書を取り交わし,合併を可決,昭和30年筑後市西牟田となる。なお,2年後の同32年西牟田の一部は三潴町に編入し,同町の大字となった。
1957年11月1日 - 筑後市大字西牟田から字大立、富安、清導寺、峰の下、東本町、西本町、田中、大坪を編入。
どうもなにかひっかかるものがあり、インターネットを検索すると、このような記事をみつけました。
どうやら、昭和の大合併で西牟田村(西牟田町)はどこにくっつくかで相当もめたようなのです。結果、この三島神社がある辺りは(三瀦村・犬塚村が合併してできた)三潴町の一部となり、現在は久留米市となりました。
町は分断されても、祭祀は以前どおりであることを、楼門の看板は主張しているわけです。最初はなにが書いてあるのか理解できませんでしたが、そういう背景があるのですね……。
境内の隅に2つお宮があります。いずれかが、仁徳天皇を祀る若宮社のようです。
神社のつくりが、鳥居、楼門、参道、権現造の社殿となっているところからして、もしかすると、三島神社となるまえは、玉垂宮か若宮八幡宮だった名残かもしれません。
楼門のなかに肥前狛犬が置かれているのですが、なぜか両側とも右の前足がありません。
この肥前鳥居は、もとは楼門前にあったものを移築したものだそうです。案内標によれば、西牟田家綱の勧請であることや、除災招福の祈願、神宮寺の名前が記されているそうですが、私には残念ながら読むことができませんでした。
そして、この肥前鳥居のさきにあるのは「社日神」の石碑です。
そして東九州や北九州、中部地方などでは、社日様は田の神または作神様といい、この両季に田の神と山の神の去来信仰と同様の伝承をもっている。
要は、田神社(天神社)に祀られる埴安命こと大幡主(博多のお櫛田さん、国常立命、神皇産霊神)と、この神社の御祭神である大山祇(三島明神)の関係を示しています。大山祇の子 大己貴が大幡主の娘婿となって「大国主」となります。それをおもえば、この配置はにくいとしか言いようがありません。いつの時代も「わかっている」ひとは居るのです。
いくら簒奪王朝が記紀を押し付けて歴史を書き換えようとしても、こうやって残るところには残っています。だから現地を訪問する楽しみもあるのですが。
福岡県神社誌:下巻31頁
[社名(御祭神)]三島神社(大山積命、菅原神)
[社格]村社
[住所]三潴郡西牟田村字本村
[境内社(御祭神)]若宮社(仁徳天皇)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.01.15訪問)