松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

5月11日の日録

すぐれない天気

今日は久留米方面で用事がありました。ふつうなら西鉄電車に乗るのですが、2時間早く家を出て、甘木鉄道とJRで、佐賀県鳥栖市の田代地区で神社めぐりをしてみることにしました。

雨が降ったりやんだりの天気です。駅まで歩いても10分ほどの距離を、ひさしぶりに車で移動して、甘木駅の駐車場に停めました。

今日の運動経路(田代宿を歩く編)

今回は、旧長崎街道田代宿の一部を歩いてみました。GPSのログで3.6kmが70分かかりました。

JR田代駅で下車し、線路沿いの道を歩いていくと、長崎街道旧田代宿がみえてきました。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷謙二(人文地理学研究室)

明治時代の地図と現在の地理院地図を並べてみました。青が、現在の国道3号に相当する道で、赤が旧長崎街道(現在の国道34号)です。

田代(佐賀県)とは - コトバンク

近世には対馬藩(つしまはん)の飛び地田代領で、代官所のあった「田代町」は、また、長崎街道の一宿場をなし、田代宿(しゅく)ともよばれた。伝統産業の田代売薬(肥前売薬)で広く知られ、久光(ひさみつ)製薬などがある。国指定史跡の田代太田古墳がある。

対馬府中藩 - Wikipedia

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)は、江戸時代に対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部ならびに基山町)および浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩である。

(略)

しかし、山がちで平野の少ない対馬本国では稲作がふるわず、米4,500石、麦15,000石程度の収穫であり、肥前国の飛領を除くと実質的には無高に近く、藩収入は朝鮮との交易によるものであった

ここ田代宿はむかし、対馬藩の飛び地でした。藩としての経営基盤を確立できるよう、飛び地領が与えられたと、以前ならった記憶があります。

途中で右折して、最初の「道祖神社」をめざします。後日「神社めぐり」で取り上げますが、金毘羅宮、瑠璃光殿(薬師堂)、十三仏のお堂、お地蔵さんと、非常にお寺色のつよい、たぶんむかしはお寺だったんじゃないかとおもえる神社でした。

田代宿のちょうど入口にあたる場所に出ました。

ここ、国道500号から国道34号に合流するさい通過する場所で、私もむかし佐賀に用事があるときは、よくとおっていました。通行量が多いわりに道幅がせまく、JR鹿児島本線の踏切があるため、朝晩は大渋滞を起こします。

ここを通過したくなくて、あれこれ迂回路を探したり、高速道路に課金したりするひともいました。私もどこかの時点で、5分ほど遠回りしてほかの道を走るようになった記憶があります。

いまもむかしも、交通の要衝ということでしょうか。

長崎街道と旧国道3号の分岐点にあった、田代の八坂神社です。

旧国道道路元標があると矢印があるのに、その先は壁です。

裏にまわると、ちゃんとありました。

長崎街道・田代宿
田代は対馬藩基肄父領の代官所が置かれていたまちであると同時に、 長崎街道25宿・57里のうちに数えられる宿場町でもありました。 また、ここから久留米道日田道が分岐する交通要衝でもありました。 江戸時代後期の記録によれば「人家500件計、町5丁計につづけり、 茶屋、宿屋多し」となっています。
長崎街道を往来する大名・長崎奉行・幕府役人などが宿泊する「上使屋」は田代下町に、一般旅行者は田代外町の荒木屋・肥前屋などの旅籠に宿泊しています。
外町へ曲がる下町角に一里塚・高札場があり、その対面が問屋場で人足・馬の継ぎ場となり、外町・昌町の街道分岐点にはそれぞれ追分石が建てられています。
    鳥栖市教育委員会 

なお、むかし、代官所から東が「上町」で西が「下町」だったそうですが、「下町」という言葉を避け、鳥栖市と合併したさい「代官町(大官町)」に改称したとのことでした。

現地の案内板を読むと、どうやらむかしは「たじろ」だったようです。さきに引用した「今昔マップ」でも、明治期の地図では駅名が「たじろ」です。

以前、何の建物かわからず前を通り過ぎていたのですが、歩いてみてやっと、これが銀行だと気づきました。核シェルターみたい……。

江戸時代、鳥栖市の東半分は対馬藩領でした。対馬藩は田代領を治めるために代官所を設置し役人を派遣しました。田代上町に所在する西清寺の記録によると元和年間(1615-1624)に建築されたと思われます。

「御勘定所田代代覚書」には代官所の建物は田代上町にあり「御屋敷」と呼ばれていたことが書かれています。また、長崎街道に沿って南面し、表間口が48間、奥行きは東82間、西77間、裏は68間の広さであったことがわかっています。

田代代官所は嘉永4年(1851)に改築されたことが記録に残っています。この指図はその時の設計図にあたるものと思われ、弘化4年(1847)の作成と考えられています。また、建物の一部は2階建てになっていたようです。

指図の本家は代官が公務を行った建物で、中庭の奥は住まいとして使われていました。

この他に、享保9年(1724)の指図も現存してあり、これらの指図は平成11年に鳥栖市重要文化財(歴史資料)に指定されました。

消防団車庫や田代小学校のあるところに、えびす様と案内板があります。

案内板によれば、この一帯にむかし対馬藩の代官所があったとのこと。

広及舎跡
江戸時代、現在の鳥栖市の東半分と基山町は、対馬藩主・宗氏の領する飛び地領で、田代代官所が統治していました。
明治4年(1871)の廃藩置県で代官所は廃止されますが、その後も宗家は旧田代領内に多くの耕地を所有する大地主として、広及舎という組織に経営を任せていました。 広及舎の運営には、かつて田代代官所に出仕していた人たちが主として関わっており、明治14年(1881)頃までは東京在住の宗家からの送金で新たな土地を購入するなど、経営を拡大させていました。
やがて大正時代になり、宗家は土地を整理・売却しますが、広及舎もこの頃解散しました。

民家の立て看板をなにげに眺めて驚きました。廃藩置県後も、地主として影響があったというのです。表札が「長」となっており、対馬にも長さんがいますから、飛び地支配のためにやってこられた方の末裔でしょうか。

サロンパス公式サイト|肩こり腰痛に、サロンパス®|久光製薬株式会社

拠点一覧|会社概要|企業情報|久光製薬

九州本社 〒841-0017 佐賀県鳥栖市田代大官町408番地
東京本社 〒100-6330 東京都千代田区丸の内二丁目4番1号

久光製薬九州本社・鳥栖工場です。サロンパスで有名ですね。ここが発祥の地なのです。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷謙二(人文地理学研究室)

 昭和のころの地図では「サロンパス工場」ですからね……。商品名堂々と地図に載ってます。現在の地理院地図でキューピー工場と記載がありますが、これがマヨネーズ工場って書いてあるようなもんですからね。

本社や工場がある敷地の道をはさんで反対側は社員駐車場が多く、通学路の注意書きなどがなければ、私有地を勝手に歩いているような錯覚におちいります。

それにしても、よっぽどこの地区は金持ちが多いのか、立派な構えの屋敷がずらりと並んでいます。そうとう裕福な町だったんでしょうね……。

田代駅に戻ってきました。

鳥栖貨物ターミナル駅 - Wikipedia

田代駅の裏側は、JR貨物の鳥栖貨物ターミナルです。積み込む前のコンテナがどんどん整理されていました。

ヤクルトの思い出

今回の訪問先には、ヤクルトの自動販売機があります。以前から気づいていたのですが、ヤクルトの下に100円とあり、「は?あんな小さいのを100円とかありえん!(・へ・)」とおもって、いつも最上段の缶コーヒーを買っていました。

知人事務所の従業員のかたから、「2本出てくるんですよあれ。ヤクルト一本50円しませんから。知らなかったんですか?(´・ω・)」と、50近いくせになんも知らん馬鹿殿と哀れげな目でみられます。

半信半疑で買うと、2本ホントに出てきました。

ヤクルトのサイズは、老若男女を問わず「一口で飲みきれるサイズ」にしたと、あとで知りました。

そんなことを子供のころ知りません。コップに注ぎ、水で薄めて砂糖を足して飲んでいたところ、祖母から「かつえの真似をするな!行儀がわるい!」と叱られた話を従業員のかたにしたら、

「かつえってなんですか」と質問をうけます。

「かつえ は 飢え と書いて、ルンペン とか 乞食 のこと」と言うと、こんどは「ルンペンとはなにか」と訊き返してきました。

「ルンペンってのは、ドイツ語でボロ切れのこと。いまふうに言えば、ホームレスとか?浮浪者とか?もともとは失業者を遠回しに言ったらしいけど」

「いつの言葉ですか?」

「俺の子供のころはまだ通用してたよ」

ナウい言葉を積極的に使うようにしないと、いけませんね……。