ひさしぶりの輪行
ひさしぶりに折りたたみ自転車を調整し、17日、9kmほど近所を試走しました。
乗りはじめると、やっぱりママチャリとは比べ物にならず、乗るのが楽しく感じます。
というわけで、18日、輪行しました。1月末以来です。
昨日、後輪のブレーキの調子がわるい点について、触れました。
出かける前に輪行袋に詰める練習をしていたところ、ブレーキのケーブル(配管)に痛みがあるのを発見しました。
どうもこんな感じで折りたたむときにひっかけてしまい、ブレーキの部品を痛めたようなのです。
いよいよ病院(自転車店)送り決定か……。高くついたらいやだなぁ……。
輪行袋も年に数回しか使いませんから、しょうじき、輪行に行く前に自宅で予行演習しておかないと、どこにヒモを引っかけて肩に下げるかも、おもいだせなくなっています。おかげで1本、電車に間に合いませんでした……。
西鉄甘木駅に到着し、輪行袋に詰めて改札をとおり、各駅停車の電車内にひもでくくりつけます。ワンマン運転の各駅停車は車両両端の扉しか開閉しないため、真ん中の扉にしばりつけておいても、世間の邪魔にはなりません。隣に座って、のんびりできます。
70分ほど乗車して、西鉄大善寺駅に到着しました。ここで輪行袋から折りたたみ自転車を引っ張り出します。
今回は、全体で約20km走りました。
「大鶴食堂」(大善寺)
今回のお昼は、西鉄大善寺駅から徒歩2分、大鶴食堂さんでカツ丼をいただきました。
「久留米郵便局郵便集配休憩所」となっており、郵便配達のかた御用達です。私が写真をとったあと、郵便局の軽バンがやってきて、午後から配達させる郵便物をフタつきのカゴで10箱ほど置いていかれました。配達のかたに「メシ食ったらつぎはこれだからな。しっかり働け」ということでしょうか。
甘めの味付けでカツはカツ丼用の薄めのもの。卵とじのタイミングがよいのか、さくっとしています。つゆだくだくだくくらいなので、そういうのが好きなかたにはたまらないでしょう。ほんとうにいつもこうなのか、(いつになるかわかりませんが)次回訪問したらまたカツ丼たのんでみて、試したいとおもいます。
「ポッポ汽車公園」
大川線(おおかわせん)は、かつて福岡県三潴郡筑邦町(営業当時は大善寺町、現在の久留米市の一部)の大善寺駅から福岡県大川市(営業当時は大川町)の西鉄大川駅までの間を結んでいた西日本鉄道(西鉄)の鉄道路線である。
今昔マップ上に、おおよその線路の位置を赤で示してみました。ほぼ現在の県道と同じ経路です。
現在の県道が出来る前は、これが幹線級の道路だったわけです。離合ぎりぎりですね。
どんどん道は狭くなり、三潴小学校やコミュニティセンターがみえてきたあたりでアスファルト舗装ではなくなります。レンガ敷きをしばらく走ると、SLがみえてきました。ポッポ汽車公園に到着です。
可愛らしいSLです。この大川線を走っていたとのこと。
明治44年(1911年)製だから、すでに110歳を超えています。
オーレンシュタイン・ウント・コッペル - Wikipedia
同社は1876年4月1日、ベルリンにおいてベンノ・オーレンシュタインとアルトール・コッペルにより設立された。
創業当時は一般的な機械メーカーであったが、創業後の早い段階で主に鉄道車両の製造を開始した。同社はそのほかに重機とエスカレーター等を製造していた。しかし同社は1981年に鉄道事業から撤退(略)
日本には、1910年代に、当時開業ブームが起こっていた軽便鉄道用機関車が多く輸出された
アルトール・コッペルさんのつづりを調べると「Arthur Koppel」(英語読みだと、あーさーこっぺる、ですね)で、おそらくこの会社のことを指すとおもわれます。
大川線の休止
昭和26年9月、大川線の休止が実施された。この措置は、筑後川の水害防止のための建設省の改修工事の進行に伴い線路移設を迫られた結果であったが、この時点において、同線には機関車六両が配備され、列車は定員50名の客車2両貨車1~2両連結程度で、最高時速20km/hで走るという前時代的存在となっていた。しかし、大川~城島~大善寺間を往復する地元の足としては無くてはならない唯一の交通機関であったので、工事現場を避けた迂回線によって、大川~大善寺間22往復のバスによる代行輸送が開始された。
大川線は明治43年12月、大川軽便鉄道として誕生し、当時は時代の先端を行く乗物であった。以来40余年、大川鉄道、九州鉄道大川線を経て、昭和17年西日本鉄道大川線と変遷を重ねたが、この間、三潴平野における運輸交通の動脈として活躍、その果たした役割は大きかった。
昭和8年ごろはバスとの対抗上ガソリンカーが走り、久留米の日本足袋、つちや足袋(現日本ゴム日華ゴム)の従業員を7割引という工員定期券で輸送して好評を博したり、また、日田方面の木材を大川の家具工場に、また糸島米を沿線一帯の醸造元に送りこむなど、地域の産業振興に大きく貢献してきた。戦時中は燃料不足のため一時ガソリンカーを木炭車に改造したが、昭和18年以降、休止までは汽車だけによって、まだその健在を保っていたのであったが、時代の流れには抗しきれず、そのユニークな姿を消していった。なお同線は昭和41年5月6日、正式に廃止となった。九州鉄道株式会社(現西日本鉄道株式会社)
九鉄は大川線と上久留米線を走る太田鉄道、福島線と甘木線を走る三井電気軌道から成立していた。しかし昭和23年7月に上久留米~津福間の上久留米線、同26年9月に大善寺~榎津間の大川線、同27年1月に旭町~四つ山間の大牟田市内線、同33年には久留米市日吉町~八女市福島間の福島線が休止又は廃止され、残存路線は大牟田本線、甘木線、太宰府線だけとなった。上久留米線は、大牟田線の津福~大善寺間軌間を変更して流用されると中断されてしまった。
大川線SL(ポッポ汽車)
久留米市縄手町から大善寺、早津崎、高三潴、草場、城島を経て、大川までポッポ汽車が走っていた。ドイツ製の機関車が黒煙を吐きながら、汽笛を鳴らしながら客車や貨車を四~五両引っぱって走った。
ピッーポッー ピッーポッー
この大川鉄道は筑後川左岸の町や村を結ぶ唯一の交通機関であり、旅客のほか大川の木工品、城島町の酒や瓦、その他沿線の産出品を運んだ。停留場は、町内に早津崎、塚崎、草場の三駅があった。
大川線の営業区間であった大善寺駅の構内に立てば、転車台、低いホーム、小型の客車機関車など可愛らしい姿の車両たちを思い浮かべる。到津遊園に保存されていたSLは、その機関車の中の一台である。
大川線の歴史
大川線は、明治40年9月、上久留米~大川間の馬車軌道免許を取得した大川馬車軌道株式会社が、同42年9月に大川軌道株式会社として設立され、44年8月には大川軽便鉄道と商号を変更し、大正元年12月営業を開始しました。旅客輸送だけでなく、大川地区特産の家具、酒、畳表などの貨物輸送も大きな目的でありました。
大正2年1月には大川鉄道株式会社と商号を変更し、大正8年2月には、三潴軌道株式会社の路線の一部、大川~柳河間6.36kmを買収しました。大正10年1月には若津~榎津間の営業を開始し、昭和12年6月九州鉄道が大川鉄道を合併しました。昭和17年9月、5社合併により西日本鉄道株式会社大川線となりました。
ここを走る小さな蒸気機関車はピッーポッー、ピッーポッーと牧歌的な哀調を帯びた汽笛を響かせ、みんなからポッポ汽車とよばれて親しまれましした。昭和8年ごろはバスとの対抗上ガソリンカーが走り、戦時中は燃料不足のため一時木炭車に改造したりと、41年の歴史を縫って三潴郡を筑後川沿いに走りこの地域の運輸交通の動脈として活躍しました。
その果たし役割は大きいものがありましたが、時代の流れには抗しきれず昭和26年に休止となり、昭和41年5月に正式に廃止となりました。運行休止は沿線一帯の人々に限りない愛惜の情をいだかせたものでした。このうちの一両は到津遊園に展示保存され、その昔をしのばせていました。ここに展示されている機関車は、西日本鉄道株式会社の御厚意によりその蒸気機関車を平成7年4月に譲り受けたものです。
にしてつ画像ライブラリー「いとうづゆうえん(1970〜80年代)」 」
小倉・八幡方面に親戚が居たかたは、むかし「いとうづゆうえん」という遊園地があったのをおぼえているかたも多いとおもいます。この蒸気機関車は、いとうづゆうえんに展示されていた、あれの現在の姿なのです。そういやなんかあったな?と記憶にあるかたも居るのではないでしょうか?
弓頭神社
ここは、次に取り上げる高良御廟塚とともに、約3年前にいちど訪問しています。
いまの視点で眺めなおしてみると、
(1)まずこの地を治めたのは高良玉垂命である。
(2)その後、九州王朝の残党征伐をやっていた景行天皇と国乳別皇子(水沼君の祖)が支配する。
(3)玉垂命と水沼君は関係がない。
ということになり、境内の案内板にある由緒書きは、意図的に王朝簒奪をにごしていることがわかります。さすがに3年前は、違和感を感じつつもそこまでは理解しきれていません。人間、似たようなことをずっと繰り返しているような気がしてましたが、少しは進歩しているんですね……。
貝塚(高良御廟塚)
今回、高良御廟塚にも足を運んでみました。
高良玉垂命の墓所とされている場所で、3年前にも足を運んでいます。
いま読み返すとだいぶ考えもかわったことを痛感します。
ホント3年でいろいろ勉強させていただきました。
それにしても、牡蠣殻やアサリの貝殻で真っ白です。
2020年2月15日、「城島酒蔵びらき」に行ったさい、途中でいくつか神社めぐりをしました。そのさいに訪問し漏れていた久留米市大善寺町中津の中島天満宮を訪問して、「神社めぐり」の予定地はすべて終了です。
最後に大善寺玉垂宮にお参りして、西鉄大善寺駅に向かいました。
大善寺駅を15時26分に発車する各駅停車に乗り、甘木駅に16時20分に到着しました。
「来宮心中」
最近、読み返して手直しの多い文章しか書けていないため、大岡昇平さんの小説を読み返しています。むかしの作家さんの文章が、いちばん勉強になります。