松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

4月9日の日録

ひさしぶりに八代へ

知人事務所の仕事をもらう程度でほとんど仕事がない「無職プーちん」になって、1週間以上過ぎました。雇用契約だと時間単位で拘束されますが、業務委託契約(請負)なので、時間配分はかなり自由になりました。

おかげで合間に「神社めぐり」が出来ます。9時-17時拘束では、こんな感じにはいきません。

いずれ八代神社(八代妙見宮)を再訪したいとは考えていたのですが、さすがに新幹線をつかっても片道2時間半はかかります。そこまで時間が取れる日は、すぐには来ないだろうとおもっていました。

朝5時まえに目覚め天気予報を確認すると、どうやら来週は雨の日が多いようです。

せっかく出かけるなら、晴れの日に行きたいもの。

今日は15時から、町内会の用事があります。

googleマップやJR九州の時刻表を確認し、遅れても30分も遅刻することはないだろうと見当をつけ、八代神社(八代妙見宮)を訪問して、新しい御神札をいただくことにしました。

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6時半に家をでて、甘木鉄道甘木駅から列車に乗り、基山駅でJRに乗り換え、さらにJR新鳥栖駅で九州新幹線に乗り換えます。通常であればJR久留米駅から新幹線に乗り換えるのですが、今回はたまたま鹿児島本線を南下する電車より、さきに長崎本線に乗り入れる電車のほうが先発するため、このようなことになりました。

新鳥栖駅で新幹線の切符を購入したのですが、ふだん小倉駅や博多駅でつかっている特急券・乗車券の販売機と勝手がちがい、戸惑います(旧式なのか?)。

やっとこ自動販売機から発券して、乗り場に着いたのは列車到着3分前でした(笑)。

博多・小倉、関西方面ならともかく、朝の下りホームですから、ほとんどひとは居ません。

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新八代駅の在来線ホームまで1時間かかりませんでした。さすが新幹線です。

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自分の立っている場所から、新幹線ホームを撮影してみました。

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少し場所を移動してみました。このほうが立体交差していることがわかりやすいかもしれません。

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新八代駅で在来線に乗り換え、八代駅に到着しました。

駅舎のほうは改築されて新しくなっていましたが、日本製紙八代工場の雰囲気はそのままです。

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八代ほどの規模がある都市で、JR駅がかなり市街地から離れているのはむかしから謎でした。今昔マップで1913年の地図を確認すると、当時の八代駅はもっと市街地寄りにあったことがわかります。

八代駅 - Wikipedia

しかしその後、人吉まで後に肥薩線となる路線が開通する際に当初の駅の位置では折り返し運転が必要になることから、これを避けて現在地点に移転することになった。これにより、千丁 - 初代八代間の線路から分岐して弧を描くようにして現行駅に入る線路が建設され、2代目の八代駅が1908年(明治41年)6月1日、八代 - 人吉間の開通と同時に開業した。

人吉・鹿児島方面へスイッチバックしなくてすむよう、線路を付け替えた結果、市街地から離れた現在地になったとのこと。

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河童渡来の地・八代 | 熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト

最初に河童がやってきた所がここ徳渕津で、ここに住み着いたあと八代で生活を始めた河童はいたずらを繰り返し、人々の怒りをかいます。とうとうつかまってしまった河童は、2つの石がすり減ってしまうまで悪さをしないことを約束し、その代わり年に一度祭りをして欲しいとお願いし許されます。この二つの石は後にガワッパ石と呼ばれ、橋石として使われていたそうです。また、その時以来始められた河童を祀る祭りを「オレオレデーライタ川祭り」といいます。「オレオレデーライタ」の意味については諸説ありますが、「呉の国からたくさん来られた」という意味だという人もあります。

河童とは、中国から亡命してきたひとたちのことかもしれません。

今回は時間がないので訪問しませんでしたが、いずれ近隣の神社めぐりとともに、ここにも足を運んでみたいとおもいます。

八代神社(八代妙見宮)のそばには「宮地」バス停があり、運賃はたしか200円かかりません(ICカードで払うので覚えていません)。以前であればそのまま路線バスを待つところですが、いまは違います。「神社めぐり」をして、1日1社掲載のノルマを達成しなければいけません。

調べてみると、八代神社(八代妙見宮)にたどり着くまでに3~4社ほどあるようです。

というわけで、歩くことにしました。

今日の運動経路

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今回は八代駅から八代神社(八代妙見宮)、懐良親王御陵まで歩き、帰りは「宮地」バス停から路線バスで八代駅に戻りました。GPSのログで6kmちょいの経路です。

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まず最初は、萩原天満宮を訪問しました。鹿児島本線を乗り越えるため築堤がつくられ、現在では上から見下ろせる配置になってしまっていますが、元からこういう位置関係だったわけではありません。

白い鳥居に、赤黒ツートンカラーのはっきりした中国っぽい社殿でした。

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その次の稲荷神社では、せっせとご近所のかたが清掃奉仕されており、全景を撮影しようとiPhoneをかまえると「お見掛けしませんけど失礼ですが(お前だれ?)」と声を掛けられ、ブログを見せて「福岡を中心に神社の研究をしている」旨を説明したところ「新聞社?大学?」と妙にテンション高めの対応をされて面食らいます。

そのお稲荷さんの真正面に見えていたこの御霊神社は、肥後熊本藩主細川忠興公が、白木山妙見宮(八代神社(八代妙見宮)の前身)をお参りされたさい、山中に御霊宮があるのに感じ入り「我が氏神がここにあるのも縁」と、きちんと祀りなおされたものとのことでした。

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八代神社(八代妙見宮)に到着すると、これまでに見たことがないほど境内にお客さんがいます。しかもほとんどが何かの祈願をうけているようで、神職のかたは案内にかかりきりで、とても御神札をいただいて帰れる雰囲気ではありません。

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さきに霊符神社を訪問することにしました。

鎮宅霊符神社 - 美風庵だより

この神社についてはむかし日記で書かせていただきました。いまでも閲覧履歴上位にきてアクセス数を稼いでくれるありがたいコンテンツです。

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手漉き和紙の里 八代 宮地

1600年頃、水無川沿いで、柳川藩の御用紙漉き・新左衛門が紙漉きを始めたのが宮地和紙のはじまりです。熊本県下ではもっとも歴史ある紙のひとつです。

万治元年(1658)新左衛門の子孫・矢壁家のほか、原家、下川家が細川藩の御用紙漉きになります。その後、文化2年(1805)には、11軒の御用紙漉きがいたようです。

また日用の紙を漉く職人もいて、明治10年(1877)には、その数100人と書かれており(第1回内国勧業博覧会の賞状)、機械製紙が盛んになるまで、代々、多くの紙漉きがこの地で紙を漉いてきたことがわかります。

また紙漉きに関わる多くの職人らも住んでいました。

八代妙見祭の神幸行列に参列する白和幣(しらにぎて)は、この地の職人らが、自ら漉いた御幣(ごへい)を手に八代神社へ奉納するものです。

紙漉きに欠かせない水無川の美しい水と、その水無川から引かれた水路、洗い場、原料の楮をほぐす叩き石・・・、路地に入りこめば、この里のくらしの風景を目にすることができます。

霊符神社の鳥居の近くに案内板があり、読んでいて驚きました。この地はむかし、柳川と縁がある場所だったのか……。知りませんでした。

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石段を登るのはきついので、坂道側から霊符神社をめざします。

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途中で右に入り、高台の公園から見下ろすと、霊符神社の上でした。

さすがに3年もたつと記憶があやしくなり、道を探します。

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どうやら坂道を登りすぎていたようで、少し戻って左に入ります。

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霊符神社の裏手にでました。

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ここもほかの神社同様、清掃奉仕作業の真っ最中で、iPhoneで撮影しづらいことこのうえありません。

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霊符神社の展望所から、八代市街を撮影してみました。

八代神社(八代妙見宮)に戻ると、また誰かの祈願の真っ最中でした。

トイレだけ借りて退出し、もうひとつの目的地「懐良親王御陵」をさきに訪問することにしました。

懐良親王御陵を訪問してみました

懐良親王 - Wikipedia

その後は今川貞世(了俊)に大宰府・博多を追われ、足利直冬も幕府に屈服したため九州は平定される。懐良は征西将軍の職を良成親王(後村上天皇皇子)に譲り筑後矢部で病気で薨去したと伝えられる。 

後醍醐天皇の子息である懐良親王は、筑後矢部で亡くなったとされています。

なのになぜか、宮内庁認定の懐良親王の墓が、八代にあるのです。

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宮内庁の制札があります。どうやらここから先が墓地扱いのようです。

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ここも除草作業のかたが作業中でした。

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除草作業中で南京錠があいており、かなり近くでお参りさせていただくことができました。

良成親王 - Wikipedia

親王は武朝とともに名和顕興を頼って八代に逃れ、高田(熊本県八代市奈良木町宮園)に征西府を移した。ところが、元中8年/明徳2年(1391年)貞臣はこれを追撃して南進し、八代諸城の攻略を開始。顕興はこれを防がんと転戦するが戦況不利にして敵わず、9月に親王はやむなく今川軍との和睦を結んで八代城も陥落に至った。この際、武朝は行方を晦ましている。
(略)
八代陥落後、残る南朝方の根拠地はわずかに矢部(福岡県八女市矢部村)のみとなった。

懐良親王御陵(かねながしんのうごりょう) / 観光サイトTOP / 八代市

懐良親王は後醍醐天皇の皇子で、征西将軍となり九州における南朝方の中心として活躍し、弘和3年(1383)他界されました。
このお墓は、次の征西将軍後村上天皇皇子の良成親王(りょうせいしんのう)の命により菊地武朝(きくちたけとも)が造営したものです。御陵内には、懐良親王直筆銘の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、そして南側には菩提寺の悟真寺(ごしんじ)があります。

これらを読むと、臨終の地ではなく、彼が根城とした場所に墓がつくられたのだとわかります。たしかに旅先で死んだら、遺体を運んで(もしくは現地で火葬して骨にして)持ち帰りますから、その感覚なのでしょう。

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懐良親王御陵前を流れる水無川にちょっとした公園が出来ていました。

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懐良親王御陵から八代神社(八代妙見宮)まで戻ると、ちょうど神職のかたが社務所に戻られるところでした。

妙見宮と霊符神社の御神札をやっといただくことが出来ました。

「宮地」バス停に10時50分に到着し、11時3分発の路線バスで八代駅に向かいました。八代駅には鳥栖行の電車が停車していましたが、これで鳥栖まで帰ると、ちょうど1時間帰着が遅くなります。

新八代~久留米間の新幹線利用で、1時間のワープが実現するのです。

逆に言うと、1時間余計にかかるのを辛抱すれば、2,500円追加料金不要ということでもあるのですが。

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甘木駅に帰着してから昼食をいただきました。

それから、クリーニング店に冬物を受け取りに行き、クローゼットにしまい込むまえに、廊下につるして乾燥させたまま、町内会の打ち合わせに行きました。

5分遅刻でしたが、間に合いました。