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初代秋月藩主黒田長興公が、秋月種実公の重臣であった恵利暢尭(えりのぶたか)公を祀るために建てた観音堂です。境内の周囲にはずらりと石仏が並んでおり、おそらく100体はあろうかと思われます。境内全体がただならぬ雰囲気で、どこか妖気すらただよう場所です。
本殿向かって左手に石祠が2つあります。「腹切り岩」の案内板によれば、どうやらこれが恵利公の墓所のようです。
現地の案内板によれば、恵利公は主君種実公の命により表向きは降伏の使者として、実は敵情観察に東へ向かい、豊臣秀吉の軍勢と広島で行きあいます。そこで秀吉公から和睦すれば筑前筑後の2国を主君に与えると言われ、至急戻って主君に伝えたところ「お前は騙されている」と馬鹿にされてしまいます。秀吉の軍勢のすごさをつぶさに語れば、種実公どころか同輩の家臣にまで臆病風に吹かれたかと馬鹿にされる始末。
あまりのことに憤り、妻子を殺して自らも切腹して果てました。


この切腹した場所というのが、鳴渡観音堂から100mほど下ったところにあるこの巨石で、うまく全体を撮影できませんでした。上がたいらな石が、切腹した場所と伝えられており、たいらな石の上に、セブンイレブンの大福が3つお供えされていました。
天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州平定の軍勢が九州へ進軍しようとした際に種実は、講和の使いと称して敵情を探らせるべく重臣・恵利暢堯を秀吉の許へ派遣する。
秀吉は恵利へ、降伏すれば種実へ筑前・筑後の二国を与え、恵利にも3万石を与えるとした。
復命した恵利は、時代の流れを悟って秀吉に従うように諫言したが種実は恵利へ退場を命じ、島津家との義盟に従い秀吉との抗戦を宣告した。これを思い留めさせるべく恵利は諌死に及んだが種実は応じず、島津方に与して秀吉率いる豊臣勢と戦い敗北した。そして籠城中に秀吉得意の一夜城作戦(益富城)により戦意を喪失し、降伏することとなった。このとき種実は剃髪し、楢柴肩衝と国俊の刀を秀吉に献上し、娘の竜子を人質に出したことにより秋月氏は存続を許されたが、秀吉の命令で日向国財部(後の高鍋)3万石に減移封された。種実はその際、「10石でもいいから秋月に居たい」と嘆いたとする。失意の種実は、家督を嫡男の種長に譲って隠居した。
父・種茂の母が秋月藩主・黒田長貞と正室・瑞耀院(上杉綱憲の娘)の娘・春姫であった。この縁から天明4年(1784年)に第7代藩主・長堅が嗣子無くして早世し、秋月藩が断絶の危機を迎えたとき、その血筋をもって天明5年(1785年)3月17日、跡を継ぐこととなった。
こうして、秋月種実が天正15年(1587年)に秋月を離れて以来、約200年ぶりに秋月氏一族出身者が秋月に復活することとなった。