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まず、久しぶりに福岡県神社誌の該当部分を抜粋してみます。
(1)ここは三韓征伐からの帰途、「敵国降伏」の祈願をした神功皇后の聖跡地。
(2)のちに(朝倉の黒木?に居た)斉明天皇も異国降伏の祈願と奉幣を行いほどなく太平となった。
(3)天平勝宝3年(751年)、聖跡地は宇佐神宮に寄付され、秋之太夫が代官として派遣された。
おそらく重要と思われる点を要約すると、こんな感じでしょうか。
三韓征伐後も神功皇后軍は完ぺきな勝利だとは思っていなかったことがわかります。いずれまた離反することを想定し、帰路も、折々、敵国降伏を祈願していました。
ただ、もう一歩深読みをすれば、敵国降伏祈願の儀式をあちこちで挙行する必要があるほど「敵国」は九州島内にも根強くシンパが居たとも読めます。この穂波の地も、おそらくはシンパの拠点だったのかもしれません。
のちに斉明天皇は、神功皇后の故事にならい異国降伏の祈願をこの椿八幡宮の地で行ったとあります。この時点で、異国降伏(敵国降伏)とは、内部向けのパフォーマンスの要素は排除され、純粋に朝鮮半島経由でやってくる異国への呪詛に純化されたわけです。
「敵国降伏」というと筥崎宮の扁額が有名です。筥崎宮の創建は公式では延喜2年(921年)とされています。
斉明天皇より後(むろん神功皇后よりもずっと後)なわけで、この筥崎宮の扁額は、あきらかに異国への呪詛を示しています。
現地案内板では、勅命で大宰府政庁が創建したとされています。これはあくまでも神社としての成立であって、福岡県神社誌を読めば、もともと宇佐神宮の所領として宇佐神宮から代官が派遣されていたことがわかります。
一之鳥居の正面向かって左脇に、安芸殿神社があります。
御祭神は、秀村安芸太夫夫婦と助太夫夫婦とされており、現在の神職の先祖にあたる方々です。
ざっとここまで成立過程をみてみたわけですが、基本的には、現地に派遣された代官がそのまま在郷領主となり、神社創建とともに神主としても地域を支配したという構図がみてとれます。
この秀村氏、旧穂波町長や飯塚市議を輩出しています。地域にいまも権力を有しているようです。
この椿八幡宮で一番目立つのは、一之鳥居で、脇の県道からは当然のこと、国道200号バイパスからも望むことができます。
現地案内板ではご祭神は、応神天皇、神功皇后、武内宿禰とされています。福岡県神社誌よりも、ずいぶんとご祭神が整理されています。ここで気になるのは、武内宿禰です。
椿八幡宮 崇敬集めた椿庄の惣社|発掘(ほる)ばい 九州古代ヘリテージ
この地は宇佐八幡宮の神領・荘園の椿庄で、孝謙天皇の御代の751(天平勝宝3)年に宇佐八幡宮から筑紫水沼の君の後裔(こうえい)、「秀村安芸大夫長晴」を神官兼代官として迎え、宇佐八幡宮から勧請したことが始まり
秀村氏は、水沼君の末裔と称しているとのこと。
武内宿禰は、本人としての姿のほか、九州王朝最後の天皇 高良玉垂命(開化天皇)を仮託した姿でもあります。二人の人物(否、もしかするともっと多くの人物)が、統合されているのです。
ただ、本物がどちらかを検討するより、私たちは、神功皇后の存在が正統九州王朝と現崇神王朝の転換点であったことをすでに知っています。
このことを考えれば、椿八幡宮で武内宿禰とされているのは、ほぼ間違いなく崇神天皇(中筒男尊、都怒我阿羅斯等)の偽装であろうと思い至るのです。
福岡県神社誌:上巻329頁
[社名(御祭神)]椿八幡宮(品陀別命、武内宿禰命、埴安命、息長足姫命、足仲彦天皇、保食神)
[社格]村社
[住所]嘉穂郡穂波村大字椿字屋敷
[境内社(御祭神)]安芸殿神社(秀村安芸太夫、同助之太夫夫婦4像)、産守神社(鵜葺草葺不合命、木花咲耶姫命、生産霊命)、天神社(菅原神)
[摂社(御祭神)]秋松天満宮、堀池貴船神社、小正田神社、安恒天神社、弁分須佐神社
[末社(御祭神)]楽市天満神社、若菜天満神社、貝原竜王神社
(2021.10.03訪問)