松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

うきは市浮羽町高見 弓立神社


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どうやら「ゆだちじんじゃ」と読むようです。

福岡県神社誌を読むと、御祭神に木樵明神とあるのが目をひきます。

職業に貴賤はないのですが、樵(きこり)さんといえば林業で生計をたてるあのきこりさんです。

神社まで建ててもらえるとは、いったいどんな有名なきこりさんなのだろう?そんなことを考えながら現地を訪問しました。

福岡県神社誌の「由緒」を読むと、この弓立神社の成立過程は次のようなものです。

(1)景行天皇の熊襲親征のとき、この地に霊畤(れいじ:神仏の祭壇)をひらき、自らの弓を大石の上に立てて天神地祇を祭った。

(2)景行天皇は、子の国乳別皇子を筑紫に対する重鎮とすることとした。

(3)のちに武内宿禰が訪れたさい、故事にならい弓を大石に立て神々と景行天皇を祭り、国家鎮護の霊域として景行天皇に弓立大明神と進号した。

(4)永観元年(983年)領主清原正高が境内に木樵翁(木樵大明神)の霊を祭る。

うきは市浮羽町浮羽 浮羽島 - 美風庵だより

すでに浮羽島のときに書いたとおり、景行天皇が征討戦を繰り広げた相手は、正統九州王朝(神武王朝)の残党であると考えています。「いくは」が「弓の的」ということからも、浮羽島の伝承と、弓立神社には関連があります。

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祭壇をつくって天神地祇を祭り、景行天皇が勝利を祈願した敵は、正統九州王朝の残党でした。崇神王朝の成立後、残党(抵抗勢力)は「熊襲」とレッテル貼りされ、簒奪者からの言われなき汚名をかぶりつづけることになります。

そして景行天皇は、国乳別皇子(くにぢわけ)にこの地を治めさせることにします。国乳別は水沼君の祖であり、景行天皇(大足彦)や生目入彦(垂仁天皇)の関係者です。神社の伝承では子となっていますが、実子だったかどうかは、まだ検討が必要です。

久留米市大善寺町宮本 玉垂神社(玉垂宮) - 美風庵だより

以前はほかの古代史研究家の本を読み、高良玉垂命=水沼君と考えていました。

どうやらこの構図が成り立たないことに気づいたのは、久留米市大善寺町の大善寺玉垂宮を訪問し、いろいろ考えたときからです。

高良玉垂命の跡を継いだ大鷦鷯尊(おおさざき:仁徳天皇)は、水沼君の支配下に入る道を選びますが、全員がそう簡単に主従逆転をゆるしたわけではありません。混乱はおそらく紛争をまねき、ひいては景行天皇による征討戦につながっていきます。

問題は、武内宿禰が故事にならい祭事を行い、あらためて景行天皇を弓立大明神とした点でしょうか。この武内宿禰は、記紀が高良玉垂命の名前を出せないときに仮託した武内宿禰ではなく、本物の武内宿禰と解釈するとしても、世代がほとんど離れていません。

せいぜい離れていても一世代で、果たして神号を追贈するでしょうか。

ここは、神格化のために武内宿禰の名前が利用された、もしくは武内宿禰に仮託された高良玉垂命のブランドが利用されたと考えてよいでしょう。決して新しい支配者の権力は盤石ではなかったということです。

 

(4)については、何故領主がきこりを祀る必要があるのかわからず調べてみると、ことの起こりとして大分県玖珠郡玖珠町に、木樵堂というお堂があるようです。この弓立神社がある筑後大石の領主清原公は、清少納言の兄でした。ときの天皇の皇孫(小松女院)と身分違いの恋をして問題となり、この地に左遷されます。

のちに皇孫は清原公を忘れられず都を逃亡しはるばる九州までやってきました。当時の航路は瀬戸内海経由で現在の大分(府内)に上陸するため、筑後を目指すと、現在の玖珠町を通過することになります。

そこで道を尋ねたきこりの老人から、すでに結婚していることを聞かされ、絶望のあまり付近の滝(三日月の滝)に身を投げます。余計なことを言ってしまったと後悔したきこりも入水自殺し、その死体が筑後大石の清原領まで流れ着いて、哀れに思った清原公が弓立大明神(現 弓立神社)に祠をつくり、併せて祀るようになったとのこと。

現崇神王朝関係者による九州王朝の残党狩りの跡なんて話は、いくらそういう結論になったとしても、書いていて面白いものではありません。

悲恋物語とその犠牲者を祀るという、もう少し読者が増えてくれそうな話のほうが、書いていても楽しいのになあ……。

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そんなことを考えながら、本殿の屋根を眺めると、女千木です。

ここには女の神様が祀られています。

景行天皇が女なわけがありません。すると?

社殿を開けてもらい本殿を拝謁することはさすがにかなわないでしょうが、もしかすると景行天皇ゆかりの古社の真のご祭神は、清原公を追ってはるばるやってきた皇孫(小松女院)とその侍女たちなのかもしれません。

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福岡県神社誌にはありませんが、境内の入り口に宮地嶽社がありました。宮地嶽信仰とは、高良玉垂命が神器を継受されるまえの藤大臣 阿部相凾と神功皇后、彼らの子である朝日豊盛命・暮日豊盛命こと勝村大神・勝頼大神を祀る信仰です。いくら簒奪者の手先が制圧したところで、完全に心までは掌握できなかったということでしょうか。

福岡県神社誌:中巻266頁
[社名(御祭神)]弓立神社(景行天皇、木樵明神)
[社格]村社
[住所]浮羽郡大石村大字高見字平石
[境内社(御祭神)]稲荷神社(保食神)、天満神社(菅原神)、白峰神社(崇徳天皇)、稲荷社(保食神)、大己貴神社(大己貴神)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。