美風庵だより

風にちる 花のゆくえは 知らねども

うきは市吉井町 金川水神社


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現地を訪問すると、お宮の側に川が流れています。

これは南新川という江戸時代に開削した用水路です。うまく画像を撮影できなかったのですが、この神社の裏手で本流と支流の二手にわかれています。用水路が分岐する重要な場所に、水神様をお祀りした神社のようです。

江戸時代、命懸けで導水した5庄屋の業績しのぶ 福岡・うきは市(1/2ページ) - 産経ニュース

久留米藩領だったうきは地域は、目前に川があるのに水利が悪く、干(かん)魃(ばつ)が多発した。このため寛文4(1664)年、5人の庄屋が立ち上がり、上流約10キロの筑後川から水を引くことを計画し、処刑覚悟で藩に陳情した。これが藩営事業として認められ、村人ら延べ4万人を動員して数カ月で導水に成功したとされる。その後、改修を重ねて大石・長野水道として今にいたっている。

この5人の庄屋の物語は地域に伝承されてきた。うきは市立江南(えなみ)小では、毎年5月2日に「五庄屋追遠会」を開催し、歌詞に5人の庄屋の名前のほか、「はりつけ」や「刑罰」といった穏やかでない文言も並ぶ校歌を歌ってきたが、コロナ禍のため昨年に続き今年も中止になった。

主な施設 学校紹介 / 福岡県 うきは市ホームページ

学校校歌

一 寛文初年の頃とかやいでこの民を救わんと慨然死をもって誓いたるこの地に五人の庄屋あり
二 夏梅、清宗、菅、高田、及び今竹五か村の庄屋はここに差し出す水道工事の請願書
三 水もし引くに来たらずば皆一同にはりつけの刑罰その身に受くべしと壮んなるかなこの言や
四 至誠は人を動かして許しの下る村口に早たてらるる仕置台見るに励まぬ人ぞなき
五 矢よりもはやき筑後川さかまく波とたたかいて岩切りうがち水をせくその辛その苦そもいかに
六 百難万艱排し得て開きし長野と大石の井堰に命を救わるる田の面は二千百余町
七 千古の偉業功成りて下りし賞与の数々も五人は辞して皆受けず誰かは高義に泣かざらん
八 尊き歴史は我が村の無窮の誉れ散らぬ花御霊は永く祀られて守るか民の幸いを

この水利事業は農業増産に役立っただけでなく、結果としてこの地を有数の商業集積地に押し上げました。

筑後吉井 - Wikipedia

江戸時代に久留米城の城下町と、天領である日田を結ぶ旧豊後街道沿いの宿場町として発展を始めた。1664年(寛文4年)に大石水道と長野水道が開削され、吉井の周辺は一大穀倉地帯となる。その後も行われた水利事業によって吉井にも南新川、災除川、美津留川といった用水が引き込まれ、筑後川中流への水運を得たことで商品作物の集散地となった。
江戸時代末期からは次第に酒・油・櫨蝋等の商品作物を加工する産業が集積されて、在郷町として繁栄した。また、金融活動にも積極的に乗り出し「吉井銀(よしいがね)」とも称された。
莫大な富を得た吉井の商人たちは明治2年の大火を契機にその資力を誇示するがごとく「居蔵屋」と称される贅をつくした蔵造りの商家を建て、最盛期の大正時代には新町や蛭子町にこの「居蔵屋」が立ち並ぶようになった。

この地の繁栄ぶりが半端でなかったのは、明治15年(1882年)に日本銀行が設立された2か月後に吉井銀行が設立されたことでも、わかります。

この水神さまがある場所の地名は「金川」といい、「金を生む川」から来ていると聞きました。あとから生まれた私たちには少々理解しにくい感覚ですが、地べたはあっても水がなければ百姓はできませんし、百姓が農作物を作ってくれなければ、商売は成り立ちません。水は金の源泉だったのです。

福岡県神社誌:下巻421頁
[社名(御祭神)]水神社(水分神)
[社格]無格社
[住所]浮羽郡吉井町大字吉井字金川
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2021.09.23訪問)