26日の日録。
26日、ひさしぶりに休業中の個人事務所の扱いをどうするか、知人を訪問するため小倉に出ました。
以前、反ワクチンに染まりワクチン接種拒否した看護学生からバレンタインのチョコをもらいました。箱をみるとリーガロイヤルの名前があります。ホテルブランドでチョコ売ってるのか、と一瞬考え、そういえばむかしえらい引き出物をもらったのをおもいだしました。
ホワイトチョコレートとミルクチョコレートでつくった「鯛」です。
披露宴の翌日、匂いでかまぼこではないとわかったものの、端を折って食ったら飴細工ではなくチョコレートだったときのけっこうな衝撃は、忘れられませんね……。
知人事務所を出たあと、事前にいくつか整理していた神社などを訪問してから帰宅しました。神社めぐりの途中で、たまたまみかけたお堂にふらりと立ち寄ると、淡島大明神として立派な観音様が祀られていました。いや、これは観音様ではありません。神功皇后でしょうか?神社めぐりをしていると、たまにとんでもないところで手をあわせたくなる御神像(仏像)に出くわすことがありますが、これも立派です。
27日の日録。
朝、用事で久留米に出たあと、3kmを1時間ほどかけて歩き、3社、神社めぐりをしました。
高山彦九郎終焉の地です。
高山彦九郎正之(字仲縄)は、延享4年(1747)、上野国新田郡細谷村(現群馬県)に生まれました。
寛政の三奇人(高山彦九郎、林子平、蒲生君平)として有名な彦九郎は、全国各地を遊歴し、当時の徳川幕府を批判し、王政復古を唱えました。
尊王運動の先駆者である彦九郎は三度、久留米を訪れており、寛政5年(1793)6月27日、友人の森嘉膳宅離れで割腹して憤死しました。
終焉の地の碑は封建社会から中央集権の近代国家に移ろうとする胎動期の歴史を語るものとして貴重な史跡であります。
なお、墓は寺町遍照院にあります。
西鉄櫛原駅に歩き着いて、終了です。ここから甘木まで電車で戻りました。