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浮羽島の由来
日本の一番古い正史、日本書紀や八世紀に出来た風土記に次の逸話が記されています。
景行天皇の十八年八月(おおよそ1900年前)九州御巡幸の時、天皇は八女からこの地にお出でになって御食事をなさいましたが、お供のお料理番たちが盃を持って来るのを忘れていました。
天皇は、「惜しきかも、朕が酒盃はや」(おしい事をしたものだ、私の盃を忘れたとは)と嘆かれました。その頃さかずきを「うき」と言っていました。それ以来この地を「宇枳波夜」の郡と呼び、なまって生葉、浮羽と呼ぶ様になり、村名・町名・郡名のもととなりました。
ここには天皇の杖が根づいたと言われる逆杉があって、台風や落雷で枯れても住民たちが植えついで大切にしてきました。浮羽の地が古代から中央の史書に記されていることは意義深いことでしょう。
現地案内板の伝承は、話半分にきいておいたほうがよいでしょう。
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。
八女市の一部(星野村)
うきは市の大部分(吉井町長栖・吉井町鷹取を除く)
景行天皇の九州巡幸の最終地として有名である。当時は的邑(いくはのむら)と呼ばれていた。
「いくは」を「精選版 日本国語大辞典」で調べると、「弓の的」のことだとあります。
すこし考えてみるとわかりますが、実戦で弓の的となるのは、「敵」です。味方を的にする馬鹿はいません。
「島」は、ご存知のとおりもともとは川や海に囲まれた陸地を指します。後世、意味が拡大され、村落・集落・縄張り・地域を示す言葉としても用いられるようになりました。ヤクザのシノギ(収入)がある地域を「シマ」と呼んだりしますが、あれと同義です。
この両者をあわせて考えれば、浮羽島とは、的島(いくはじま)、つまり敵の本拠地(根城)と考えるほかはありません。
この地は、景行天皇がそれを制圧した記念建造物なのです。
では、景行天皇からみた敵(的)とは、何者でしょうか。
景行天皇は、「日本書紀」では大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけ)とされています。
九州王朝の血を引く正統天皇は名に「やまと」を含みます。
たとえば神武天皇は「神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこ)」ですし、高良玉垂命と同一人物であると目される開化天皇は「稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひ)」です。
以前にも書きましたが「稚」は晩生・おくて・ラストの意味があります。
幼稚園といった使われ方をするため、どうしても幼い・子供というイメージが先行しがちですが、「後から来た(来る)世代」だから「子供」を意味するわけです。
「稚日本根子彦(わかやまとねこひこ)」とは、日本の中心(根底=根っこ)に居た最後の男という意味で、高良玉垂命で神武天皇以来の九州王朝は終わったと名前が示しています。
景行天皇は、名前からしても、九州王朝の正当皇統に連なる人物ではありません。名前に「別(わけ)」を含みます。傍流・別筋ということです。九州王朝側の者ではなく、現皇室である崇神王朝側の人物であるとみることができます。
この地にも、崇神王朝側が制圧の対象とした九州王朝の残党が居たということでしょうか。
一点気になるのは、佐賀県神埼市にも「的」という地名があります。ここも敵(的)の拠点だったのかもしれません。
最初は佐賀県神埼市の「的(いくは)」と、この浮羽島一帯にかけてには関連があるのではないか(いずれかからいずれかへ移住したとか)と考えていました。
しかし、敵(的)とされた勢力が移住する際、その名称をもって移住するとは、考えにくいものです。誰も「私は非国民の末裔です」「私は敗残者の孫です」と喜んで名乗るはずはありません(まぁ「平家の落人」とか「赤穂浪士の末裔」という例外はありますが)。おそらく移住先の地名をそのまま名乗り、過去を捨てるでしょう。
となれば、景行天皇(の一軍)が蹴散らした痕跡が、各地に残っていると考えたほうが、自然ではないでしょうか。
敵(=的:いくは)から「生葉」「浮羽」と名称が変わっていったのも、同様の事情があると思われます。誰も敵とか負け組だとか、レッテル貼られたくないですからね……。