松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

日本はなぜ開戦に踏み切ったか―「両論併記」と「非決定」―

12月17日から18日にかけて上京したさい、再読しました。

私もそうでしたし、ほとんどのひとは次のように学校で習ったかと思います。

(1)明治憲法下、昭和天皇は元首(君主)だったが「君臨すれども統治せず」で、口出しをされなかった。

(2)軍部の暴走により開戦に至った。昭和天皇は反対したが、クーデターをおそれて強く出ることができなかった。

(3)原爆投下やソ連参戦で追い詰められ、昭和天皇の「御聖断」によりポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。マッカーサーに、昭和天皇は「連合国の裁定に身をゆだねる」と宣言し、彼を感激させた。

(4)昭和天皇はA級戦犯合祀に反対し、合祀後は靖国神社親拝をとりやめた。

齢をとりじぶんでいろいろ読むようになってくると、学校で習うイメージと新聞などから触れる情報の食い違いに、戸惑うようになります。

どうも虚像が大きいのです。

ジョセフ・グルー - Wikipedia

たとえば開戦時の駐日大使だったジョセフ・グルーは、戦後「もし天皇制存続をアメリカが承認していれば、5月か6月には戦争は終わっていた」と発言しています。5月?6月?ポツダム宣言って7月では?無条件降伏をつきつけられ本土決戦を覚悟したなかでの御聖断ではなかったのか?ポツダム宣言ってそもそもなんぞや?

そう考えて資料をあさりはじめていくと、早い段階で、天皇制存続・国体護持を条件とした降伏交渉を日本側が持ちかけ、それを受け入れるか、あくまでも無条件降伏を求めるかアメリカ政府内部でも割れていたことを知ります。

すでに公表された話ですが、昭和天皇は1945年8月12日の皇室会議で、朝香宮から「講和は賛成だが、国体護持が出来なければ戦争継続か」と問われ、「もちろん」と返答しています。

ポツダム宣言 - Wikipedia

この「バーンズ回答」は、「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属(subject to)する」としながらも、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」というものであった。スティムソンによると、この回答の意図は、「天皇の権力は最高司令官に従属するものであると規定することによって、間接的に天皇の地位を認めたもの」であった。

これは、さまざまな外交ルートを駆使し、ポツダム宣言の文中にはないが「日本国民が選択するのであれば皇室存続をアメリカは認める」という確証を得て、昭和天皇自ら「聖断」を下すさなかの話です。

原爆投下やソ連参戦と追い込まれ、国民の窮状がどうのこうのというのは、どう好意的にみても二の次三の次で、まずはお家存続ありきだったことがわかります。

昭和天皇 - Wikipedia

1975年(昭和50年)10月31日、訪米から帰国直後の記者会見

[問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは陛下が、開戦を含めて戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか。(タイムズ記者)

[天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます

[問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか。(中国放送記者)

[天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。

当時、まるで他人事とマスコミが騒いだそうですが、私には非難する気は起きませんでした。

むしろ、まともな人間味を感じたものです。私のように、明治のころに分家で出来た家と違います。最低でも1,500年の歴史を背負っているわけで、まずはお家存続のために動いたとしても、責められないでしょう。

そこから考えていくと、A級戦犯合祀に反対した理由も、おおよそ推測がつきます。必死になって勝ち取ったお家(皇室)存続の立場からして、A級戦犯を親拝するわけにはいきません。

(勅使派遣はあっても)自ら出向いてしまっては、戦争責任を蒸し返されます。

こういうと身も蓋もありませんが、戦勝国側から利用価値を見出され、お家存続のために戦勝国を利用し利用されてきたのが、戦後の昭和天皇です。戦勝国の私刑に差出し見殺しにした者を公然と拝むことは、戦勝国の心証を害することになります。

卜部亮吾侍従日記 - Wikipedia

1988年4月28日の日記には「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」との記述があった。
2001年7月31日の日記には「靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」との記述があった。
2001年8月15日の日記には「靖国合祀以来天皇陛下参拝取止めの記事 合祀を受け入れた松平永芳(宮司)は大馬鹿」との記述があった。

A級戦犯合祀の問題は、戦犯とされたひとびとの尊厳回復をねがう保守派・右翼の立場と、戦勝国に生かしてもらった昭和天皇の立場には自ずと溝があり、それが露呈したというふうに理解しています。

 

この本は、開戦に至った意思決定過程を整理しまとめたもので、上記のような話があるわけではありません。

 

しかし、開戦に向けた意思決定過程のなかに垣間見える昭和天皇の姿もまた、けっして非戦一辺倒であったとはいえないものです。

永野修身 - Wikipedia

勝算を問われると、自己の見解として「書類には持久戦でも勝算ありと書いてあるが、日本海海戦のような大勝はもちろん、勝てるかどうかも分かりません」と率直に述べた。
そのため、昭和天皇の目には永野は頼りない人物に映り、永野も信任を得ていない旨を自覚していたという。

高松宮宣仁親王 - Wikipedia

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦前夕の11月20日、軍令部部員と大本営海軍参謀を務めた。この頃、保科善四郎(海軍省兵備局長)に日本軍の実情を聞き、燃料不足を理由に長兄・昭和天皇に対し開戦慎重論を言上する。昭和天皇は当初宣仁親王を主戦論者と見ていた為衝撃を受け、総理兼陸軍大臣・東條英機、軍令部総長・永野修身、海軍大臣・嶋田繁太郎を急遽呼んで事情を聞いたという。

軍令部総長が3年目以降の見通しが立たないと正直に奉答したことを叱責した昭和天皇は、11月には高松宮の直訴を大臣達に確認し取り上げないところまで、決心をかためています。クーデターをおそれて言えなかったにしては、海軍大臣と軍令部総長の報告をきいて下がらせるだけで済ませるとは、ニュアンスがだいぶ異なるようです。

そもそも、明治憲法において、昭和天皇は主権者であり元首(君主)であり、軍を総攬する大元帥で、議会も首相も大臣もみな昭和天皇を輔弼(補助)する機関に過ぎません。意思表示は、元老・枢密院議長・内大臣をつうじて行われ、政・軍への影響は現在とは雲泥の差がありました。

戦後、田中清玄が「陛下は開戦に反対であったのになぜ止めなかったのか」と訊ね、「私は立憲君主であって専制君主ではない。臣下が決めたことを拒めない」と返答しています。

3年目以降はわからないやけっぱち開戦とわかっていても、部下の意見がそれでまとまった以上、OKしました。

それはいくらなんでもなぁ、と思うのは、やはり後世の人間として、被害の大きさを知っているからなのかもしれません。

そこまでして残したお家も、皇位継承問題で揺れています。

紛糾し決着できず、時間切れなんてことにならなければよいのですが。