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日田市石井地区にある神社です。
御祭神は鳥羽宿禰とされており、元々は会所宮(よそみや)があった場所にあったのが移転してきたとあります。
大蔵氏が祀る大原八幡宮から目障りだったのか、直線で約3km吹っ飛ばすとはただごとではありません。しかも、山を背にして、視界から見えないようにする徹底ぶりです。
では、そこまで忌避された石井大明神鳥羽宿禰とは、いったい誰なのでしょうか。
会所山(よそやま)にある説明碑です。神功皇后の三韓征伐で軍議の場所を提供したのが鳥羽宿禰とされています。
学術的には偽書とされる『先代旧事本紀』国造本紀に、古代ヒタにおいての国造には、「成務天皇の時代に葛城国造同祖、鳥羽足尼(宿禰)を定めた。」とある。止波宿禰(鳥羽宿禰)は、470年以降(古墳時代後期)に靱編連(ユギアミノムラジ。現在の日田市刃連町付近)に会所宮(現在の会所山久津媛神社周辺)とよばれた屋敷に居住し、村人に農業などを指南した人物として『豊日志』(現存せず)に記されていたとされる。
『豊後国風土記』靭編郡の条には、欽明天皇の時代、日下部氏の祖である邑阿自(オウアジ)が靱部として仕えており、村について家を構えた。これにより靭負(ユギオイ)村とよび、後に靭編(ユギアミ)郡と呼んだとある。
開化天皇の孫・若筒木王(彦坐王の子)に始まる、但遅馬国造の日下部君(『古事記』、『大日本史』)。
開化天皇の孫・狭穂彦王(彦坐王の子)に始まる、甲斐国造族の日下部直、河内の日下部連、穴戸の草壁宿祢。
葛城氏と同族ということは、鳥羽宿禰の祖は武内宿禰と考えることができます。また、日下部氏は開化天皇の子孫とされています。
以前から「玉垂命(開化天皇、藤大臣)と武内宿禰はほんらい別人だが、記紀においては、わざと同一視されており、武内宿禰とあれば、まずは玉垂命の書き換えではないかと疑うべき」と主張してきました。
この石井大明神とは、玉垂命の一族か、部下に違いありません。
つまり、会所宮の実態は玉垂宮であり、新支配層である景行天皇(大足彦忍代別天皇:おおたらしひこおしろわけ)に降伏帰順をしたのが久津媛(とその一族である鳥羽宿禰)と考えると、日田の地の支配層交替がひとつ、明確になります。
オシロワケと名前に「別」があるのは、別系統ですよ、という暗示と理解しています。
九州王朝最後の天皇である玉垂命から、現王朝への支配層交替が、オシロワケの九州巡幸(侵略?征服?)の本質だったのでしょう。
楼門のある石段をあがっていくと、社殿に出ます。
と、ここまで考えてわかったつもりになっていたのですが、扁額をみて、再考しているところです。これではまるで建御名方神が使用する梶葉紋ではないか……。
偶然かも知れず、なにか意図があるのかもしれません。難しいところです……。
(2021.06.12訪問)