美風庵だより

風にちる 花のゆくえは 知らねども

負け組の遠吠え(17)

古い奴だとお思いでしょうが、
古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。
どこに新しいものがございましょう。
生れた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。

子供のころ、近所のおっさんが酔って歌っているのをみて「なんじゃこれ?」と馬鹿にしていた鶴田浩二さんの「傷だらけの人生」です。

ところが、ふるくさい歌と馬鹿にしていたのに、妙に耳に残ります。不思議なものでした。

やがて齢をとってくると「何から何まで 真っ暗闇よ 筋の通らぬ ことばかり」という歌詞に、現実味をかんじます。いやですね(笑)齢はとりたくないものです。

なんだかんだとお説教じみたことを申して参りましたが、
そういう私も日陰育ちのひねくれ者、
お天道様に背中を向けて歩く、馬鹿な人間でございます。

なお「負け組の遠吠え」というタイトルは、この歌のこのあたりがヒントになっています。

富岡八幡宮殺人事件 - Wikipedia

富岡八幡宮 - Wikipedia

1994年(平成6年)10月に、盛彦の息子である第19代宮司が体調を崩して引退し、その長男が1995年(平成7年)3月に第20代宮司となったが、1999年(平成11年)以降に、金遣いの荒さや女癖の悪さなどが問題化し、2001年(平成13年)5月に解任され、先代の第19代宮司が宮司として復帰する。第20代宮司は勘当状態となった後、新たに後継者とされた姉や父たちを恨んで脅迫を行ったり怪文書を撒いたりするなどしており、2006年(平成18年)に脅迫罪で逮捕されている。

富岡盛彦 - Wikipedia

1892年1月3日、福岡県築上郡八津田村東八田に生れる。川面凡児に富岡八幡宮の祭祀継承の推挙を受けて、富岡宣永(1870-1949)第17代宮司の養子になる。國學院大學卒業。鹿島神宮宮司となって以降、1949年に岳父・宣永の後継で富岡八幡宮第18代宮司となる。1959年、神社本庁事務総長就任、神道復興に力を入れた。國學院大学の理事長を務める。(略)1974年9月9日死去、82歳没。同14日、次男・富岡興永(第19代宮司)が葬儀の喪主を務める。

先日、いかに田舎では神宮大麻のノルマ達成に努力しているかを書きました。

事件当時、実家がある地域の総代のかたとこの話になりました。総代のかたは私と違い自民党員で、いまも昭和天皇の御真影が仏壇・神棚の横に飾られているようなお宅です。

かたや借地料やお賽銭収入が年間数億円あり、弟はラスベガスで豪遊し女は囲い放題、姉はホストクラブ通いで大散財。弟を勘当してみたものの、大なり小なりどっちがましか状態。ろくでもなさに姉の宮司就任の認可がおりず単立神社となり、黙っていてもカネが舞い込む地位をめぐってとうとう兄弟殺し合い。

こちらは(神社から預かった)地域に割り当てられた神宮大麻の売り上げ不足分を、お賽銭から穴埋めして宮司に納付。賽銭で足りなければ、毎年積み立てている修繕金の通帳から取り崩して上納。

「格差社会だねえ。ホント格差社会。儲かってるところからとりゃいいのに」と話したおぼえがあります。

この事件で知ったのですが、神社本庁の事務総長や国学院の理事長をつとめた先々代は、いまでいう福岡県築城町の東八田ですからJR日豊本線築城駅近くが実家の御養子さんでした。おなじくいまでいえば宇佐市出身となる神道家 川面凡児の推挙だそうですから、若いころから近郷出身の英才として目をかけられていたのでしょう。

けっきょく、業界の頂点に君臨しても、孫の世代はあぶく銭の重みに人生をつぶされてしまったわけです。

売り家と唐様で書く三代目とは - コトバンク

売り家と唐様で書く三代目

初代が苦労して築いた家や財産も、三代目ともなると商売そっちのけで遊芸などに身を持ち崩し没落して、ついに自分の家を売り家に出すようになる。その売家札の字が唐様で、しゃれている。遊芸におぼれて商売をるすにした生活がしのばれる、という意の川柳。 

有名なことわざがふと脳裏に浮かびます。

人口が減っているのにいっこうに減らない割り当てにキレているくらいが、逆に幸せなのかもしれません。