11月3日の日録(久しぶりの高良山登山編) - 美風庵だより
3日、久しぶりに高良山に登り、高良大社の御神札などをいただいてきました。
6日、取り替えた神棚のお札を返しに、高良山に再び登りました。
このつぎは正月かな?と思っていたのですが、日記を書いていて、
(1)放生池の鯉に餌をやる約束をしていながら、実行していない
(2)「磐井溶鉄所の祠」なるものが在るらしい
という2点に気づきました。
というわけで、再度、昨日に引き続き、高良山に登ることにしました。


モスバーガー 西鉄久留米駅前店 (MOS BURGER) - 西鉄久留米/ハンバーガー | 食べログ
甘木駅9時52分発の大牟田行電車に乗り西鉄久留米駅で下車します。駅1階のスーパーで「麩」を2袋買い求め、モスバーガーでフィッシュバーガーとポテトのセットをいただきました。
「なぜ電車とバスでわざわざ行くのか?」という質問を、この日記を読んでいるリアル知人からよくいただきます。
バス路線図をみれば一目瞭然ですが、北・南・西にバス路線が走っています。
車で行けば、必ず元の場所に戻らないといけません。路線バスが1時間に2~5本走っていますから、南から入山して北や西に抜けようと、西から入って南に抜けようと、自在です。どういう経路を組み合わせても楽しめ、しかも翌日ぐったりするほどの運動量ではありません。
ロケーション最高の名低山です。
今回は、放生池でまず鯉に餌をやり「磐井溶鉄所の祠」なるものを見て、さらに歴代座主の墓地も訪問してみようということで、変わった経路となりました。


「御井町バス停」に到着し、大鳥居側から高良山を目指します。
先日も書いたとおり、御井小学校は府中宿の本陣跡に建っています。その記念碑が校門横にひっそりと建っていました。御井町誌を読むと、どうやら初代御井小学校は本陣を転用したものらしいのです。小学校に転用できる本陣って、どのくらい大きかったのでしょうか……。
旧参道から、放生池を目指します。


放生池に到着しました。まだ学生のころ、売店があり、鯉の餌に焼麩を売っていました。たしか50円だったと思います。ジュースなども売っており、下山してきたかたの休憩ポイントとして機能していました。
この池、高良山から流れてくる2つの川から取水しているそうなのですが、川の流量が減るにつれ、すっかり泥沼と化してしまったと、アパートの大家がむかし言っていました。いまの姿からは信じられませんが、ここが水浴びができるほどきれいだったそうなのです。
焼麩2袋で、220円ほどでした。たっぷり入っています。
言葉がつうじるわけはありませんが、「次に来るときは餌をやる」と言って忘れていた非礼を詫び、袋を開封します。


ちょうど子供連れのかたがおられたので、子供さんにも分け与え、
(1)2つか3つずつ麩をもつ
(2)鯉と目が合ったらその鯉めがけて投げる
と、なぜか麩の投げ方をレクチャーして、二人でポンポン池に放り込みます。
鯉が餌をうばいあうと、池の底の泥が舞い上がり、さらに池が濁ります。
鯉は胃がありません。満腹になったら食うのをやめるという習性がなく、とにかく口に入るものはすべて飲み込みます。とはいえ、放生池の大きさを考えると、この繁殖は尋常ではありません。
どうも話を聞くと、近所のかたがパンの残りや、残飯を投げ込んでいるそうです。
20分ほど鯉の餌やりをして遊び、北谷コースを抜けて、王子池近くの「磐井溶鉄所の祠」を目指します。


吉見岳の展望所から、久留米市街を眺めつつ休憩しました。


久留米市山川町 高良御子神社(坂本神社・王子宮) - 美風庵だより
山を下って、王子池にでました。王子池の下にある高良御子神社の境内で「磐井溶鉄所の祠」を探します。
坂本神社の正面向かって右脇にある石祠が、それのようです。インターネットで見た画像とそっくりです。以前この高良御子神社を訪問したとき、福岡県神社誌の記載とあわず不思議だったのですが、これが溶鉄所が存在した証拠だったとは……。
久留米藩は幕末になり増大する鉄の需要に応じるために、当時考古学者として名を成していた矢野一貞を開物方加役奥通りに任じた。製鉄には原料の砂鉄、水、木炭が必要であった。この三つを調達できる土地として選ばれたのが岩井川の泉の湧き出る土地であった。砂鉄は浮羽郡田主丸町幸島、三井郡北野町高良の筑後川から採取、水は水量豊かな岩井の湧水、木炭は林業の盛んな高良内から調達したと思われる。元治元年(1864)鎔鉄所は清水に近い平たんな場所に設置された。それを記念して石祠がたてられていたが、現在では「動乱蜂」で有名な王子宮(山川町)の境内に忘れられたように立っている。
『日本書紀』継体天皇21年(527年?)6月3日条によると、近江毛野が軍6万人を率い、任那に渡って新羅に奪われた南加羅・喙己呑(とくことん)を再興して任那を合併しようとした。これに対して、筑紫君磐井が反逆を謀って実行する時をうかがっていると、それを知った新羅から賄賂とともに毛野の軍勢阻止を勧められた。そこで磐井は火国(のちの肥前国・肥後国)と豊国(のちの豊前国・豊後国)を抑えて海路を遮断し、また高句麗・百済・新羅・任那の朝貢船を誘致した。そしてついに毛野軍と戦いになり、その渡航を遮ったという。
継体天皇22年(528年?)11月11日条によると、磐井は筑紫御井郡(現在の福岡県三井郡の大部分と久留米市中央部)において、朝廷から征討のため派遣された物部麁鹿火の軍と交戦したが、激しい戦いの末に麁鹿火に斬られた。
高良山の麓に筑後国府があり、そこに磐井の地名があるとなれば、筑紫君磐井が玉垂命の一族であると考えてもおかしくはありません。八女の岩戸山古墳は、筑紫君磐井ではなく、筑紫君を攻めた勢力側の墳墓ではないでしょうか?
筑紫君磐井とは、崇神王朝とその後継である現皇室側による九州王朝に対しての「おとしめ」ではないか?最近そう考えています。


最後に、座主墓を訪問するため、いったん王子宮コースでつつじ公園まで登ることにしました。しばらく使っていませんでしたが、大雨の影響で崩落がみられます。
こんな感じで、あちこちが崩れてしまっています。


途中からは今までどおりとおることが出来、北面コースとの分岐点までなんなく歩くことができました。
つつじ公園の駐車場から、甘木・秋月・古処山地方面を撮影してみました。


尾根コースで高良大社まで戻り、神社でお参りします。


高良山茶屋で今回も肉うどんとお稲荷さんをいただきました。
以前から参道を歩いていると忽然と、まったく別のところにあるはずの「大学稲荷神社」の鳥居が現れるのが謎でした。戦前の地図などと照合すると、どうもここから座主墓や大学稲荷神社までの歩道があったようなのです。


踏み跡を目印に歩いていくと、座主墓の標識に出くわしました。
すぐ脇は、墓の残骸とでもいうべき状態です。なんということでしょう?


まさかこれが歴代座主の墓ではないだろうと、道のとおりに歩いていくと、大きな墓石がいくつも並んでいます。中央は一段高い場所にまつられています。高良山開祖隆慶上人の碑です。
調べてみると、いちばん下段の荒れ放題の墓地が、室町時代のもののようです。上段が江戸時代のもので、もっとも高い場所に、開祖を祀っているとのこと。


それにしても今日は猫によく会う日でした。
大学稲荷神社がみえてきました。


大学稲荷神社は、権現造の大学稲荷神社のほか、三九郎稲荷、小学稲荷といった複数の神社でできています。大学稲荷神社にまずお参りし、石段を下ったところにある俗に「小学稲荷」を拝殿側から、そして裏手にまわりこみ、狐穴からもお参りしました。
行きが電車なら帰りも電車です。
あらためて筑紫君磐井について、じっくりと取り組まなければいけないかもしれません。