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町道脇に参道があります。鳥居の扁額は「八幡神社」となっており、福岡県神社誌の社号と一致しています。その下に、三階菱紋がいくつも吊り下げられており、どうやらこれが紙垂の代わりらしく、驚きました。
地元の偉人が奉納した灯篭の案内板があります。
淡窓・咸宜園と交流のあった文人・墨客たち(8) | マイ広報紙
幕末に幕府勘定奉行として、ロシア・アメリカ等との外交交渉で活躍した川路聖謨は、日田代官所の手代内藤吉兵衛の子として享和元(1801)年に日田で生まれました。4歳のときに、父に従って江戸に転居し、12歳のとき下級幕臣の小普請組川路三左衛門の養子となります。
(略)
川路は、嘉永7年1月23日、淡窓が73歳のときに、長崎でのロシア使節との交渉の帰路で会見をしています。淡窓が郡代に従い、肥前田代(鳥栖)に赴いた翌日のことでした。この会見は、長崎への往路で、川路が叔父(実母の弟)である代官所元締の高橋古太夫と面会した際、淡窓との引見を希望したため実現したものでした。
インターネットで発見することができた記事はこれくらいですが、どうも相当な上級幕僚だったようです。
案内板を読んでいくと、現在の宇佐神宮領であったこと、天慶5年(942年)に藤原氏が創建したこと、そして御神紋は流れ三つ巴紋だということがわかります。この時点でここは宇佐神宮が所領を監督するための出先としてつくったものだとおおよそ見当がついた気になり、境内はシンプルなものなのだろうと勝手に想像していました。
小笠原藩がかかわった神社によく見られる翼廊つきの社殿に、これまた地元名士が奉納した狛犬であることを示す案内板が誇らしげに掲げられています。
ここまで来て、社殿向かって右手に石祠が大量に設置されているのに気づきました。ただならぬ雰囲気を感じて、登ってみることにしました。
登りつくと、歳登神社があります。福岡県神社誌の無格社一覧にある「歳登社」とは、どうやらこれのようです。嘉永7年(1854年)に現在地に建立され、平成5年(1993年)に再建されたとのこと。どうやら背後にある潰れた石祠が、むかしのもののようです。
見下ろすと気づきますが、境内社の多数を連れ従えているのは八幡神社ではなく、この歳登社なのです。驚きました。しかも、八幡神社の社殿より、一段高い場所に歳登社が鎮座しています。
歳登社から一段下がった位置(それでも八幡神社社殿より高い位置)に、諏訪神社があります。諏訪神社というからには建御名方神を祀っているはずです。
境内に下り、社殿に近づくと、後から据えられたっぽい石祠が2つありました。小一郎神社とあり、これもどうやら、福岡県神社誌の無格社一覧の「小一老神社」が移築されたもののようです(違っていたら訂正します)。
上流部の添田町中元寺地区や添田地区には、大幡主や大国主・建御名方神の祭祀が残っています。簡単に言ってしまうと、宇佐神宮領となる前は、ほんらいの支配者であった大国主とその関係者を祀る神社だったのが、神宮領となって八幡宮で上書きされたのが、現在の姿だと思われます。
意外なところに、と言っては失礼ですが、過去の記憶を残す重要物件が現在もしっかり残っていたとは……。
福岡県神社誌:下巻205頁
[社名(御祭神)]八幡神社(誉田天皇、神功皇后、姫大神、高淤加美神、罔象女神、闇霊神)
[社格]村社
[住所]田川郡大任村大字今任原字上今任内野
[境内社(御祭神)]歳登社、貴船社、須佐社、稲荷社
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2021.05.23訪問)
福岡県神社誌:下巻457頁
[社名(御祭神)]歳登社(大国主命)
[社格]無格社
[住所]田川郡大任村大字今任原字古寺
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2021.05.23訪問)
福岡県神社誌:下巻457頁
[社名(御祭神)]小一老社(加具土命、少彦名命)
[社格]無格社
[住所]田川郡大任村大字今任原字ヤシキ
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2021.05.23訪問)