松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

うきは市浮羽町浮羽 天満宮


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

f:id:bifum:20210501150033j:plain

f:id:bifum:20210501150304j:plain
f:id:bifum:20210501150312j:plain

福岡県神社誌を読むと、(1)三善清行の末裔 町野康倫による勧請(2)大永年間(1521年~1528年)問註所親照による建立 の2説があるようです。

武家家伝_問註所氏

ところで、問註所氏は初代康行より代々、長岩城を本拠として、生葉・竹野二郡のうち十五村三百町を領した。とはいえ、長岩城に関していえば、戦国時代の永正十年(1513)、安芸守親泰が再興したというのが当たっているようだ。そして、親泰のあとを継いだ親照のとき、問註所氏は小坂村に井上城を築き、さらにその詰め城として立石城を築き、星野・秋月らへの備えを固めた。
大永四年(1524)、秋月種時が大内氏に通じて筑前・筑後の大友氏領を侵した。問註所親照は大友義鑑に命じられて出陣、戦功をあげ感状を受けている。ついで、享禄年間(1530ごろ)星野親忠が大内氏に転じて妙見城に立て籠った。これらの反乱は、大友氏が一族や譜代の家臣に篤く、国衆には冷淡であったことが一つの原因となっていた。そのようななかで、問註所氏はつねに大友方として行動し、享禄四年、親照の嫡男鑑豊が元服したとき、大友家は一字を与えるとともに馬・太刀などを贈る厚遇をみせている。大友氏に対する問註所氏の忠節は、戦国時代末期に至るまで変わることはなかった。

いずれの説をとるにせよ、同じ日に訪問した朝田天満宮と同様の扱いだったことがわかります。

うきは市浮羽町朝田 天満宮 - 美風庵だより

f:id:bifum:20210501150121j:plain
f:id:bifum:20210501150142j:plain
f:id:bifum:20210501150235j:plain

境内をぐるりと一周すると、えびす様とお稲荷さんはわかりましたが、もう一つ御祭神が良く見えない石祠がありました。これが福岡県神社誌に記載のある金刀比羅宮でしょうか?

さきに訪問した朝田天満宮は、最初から天満宮だったのか?という気もしたのですが、この天満宮は、大山祗神社がないところをみると、元宮の記憶は有していないようです。

f:id:bifum:20210501150350j:plain

なかなか立派な彫刻で、この地域の往年の財力は相当なものだったのでしょう。

福岡県神社誌:中巻261頁
[社名(御祭神)]天満宮(菅原神)
[社格]村社
[住所]浮羽郡御幸村大字浮羽字石丸
[境内社(御祭神)]金刀比羅宮(崇徳天皇)、稲荷神社(保食神)
[摂社(御祭神)]猿田彦神社(猿田彦命)、天満宮(菅原道真)
[末社(御祭神)]記載なし。
(2021.05.01訪問)