- 最後の難関、弥山岳周辺に再挑戦
- 結論
- 西田清流公園から湯の浦キャンプ場内登山口まで
- 弓坂から崩落現場をよじ登り、かごたて峠へ
- まずは、林道側を探る
- もう一方を目指して
- 帰路、遊歩道を戻る
- 街道がなぜこの経路なのか
最後の難関、弥山岳周辺に再挑戦
これまで4回にわたり、秋月藩を支えた動脈「白坂越え(秋月街道)」について書いてきました。おおよその経路をあきらかにすることができましたが、弥山岳周辺だけが残っています。
20日に現地踏査するまでの想定経路です。地理院地図には点線で徒歩道の記載があり、そちらには「かごたて峠」があります。かたやキャンプ場から弥山岳に行く途中には「弓坂」があり、どうもよくわかりませんでした。
いずれかが正解なのか?それともこの想定そのものが不正解なのか?
18日に引き続き、20日、現地踏査を試みました。
結論
今回の踏査結果で、地理院地図を加工したものを掲載します。薄紫が白坂越え(秋月街道)の経路と考えます。理由はのちほど説明しますが、残された道跡の幅や、通りやすさを考えれば、この経路以外は街道として利用するのはほぼ不可能です。
西田清流公園から湯の浦キャンプ場内登山口まで
今回は、桂川町土師の二反田団地の南、老人ホーム「明日香園」手前にある西田清流公園の駐車場に停めさせてもらいました。通常、弥山岳登山客はもっとキャンプ場寄りの道路脇に駐車されていることが多いのですが、今回は、山中のどこから下山するかわからず、車を敢えて離れた場所に停めます。
と書くと計画的にみえますが、実際は、公衆トイレを借りたくてここに停め、現地で地図を眺めて気づき、そのままにしたものです。
一昨日、自転車で来た道を、今度は徒歩で登ります。
天気が良いと、景色も違って見えます。
一昨日は左折した道を、今日は湯の浦キャンプ場めざして右折します。
ここに来るのも何年ぶりでしょうか。湯の浦キャンプ場だと思っていましたが、どうやら正式には「湯ノ浦森林公園」のようです。しかも「ゆのうら体験の杜」という施設まで出来ています。
ゆのうら体験の杜
「森」を「杜」と同義とするのは日本のみだそうです。「杜」はほんらい「やまなし」の意でした。「森」は神の下るところと考えられ「神社」と表記されるようになり、やがて「社」から「杜」が転用されるようになったのは、平安時代以降です。つまり「神社」とは神の住まう「森」がほんらいの姿なのです。
そう考えると山岳信仰というのは日本人のほんらいの発想に根ざしたもの、と言えます。湯の浦キャンプ場の管理人棟から見える位置に「湯の浦観音寺」があるのも、山岳信仰の一端でしょうか。
管理人棟や観音寺を過ぎてさらに舗装路を登っていくと、複数のコテージがあります。弥山岳の登山案内板があり、どうやら2つの登山コースが整備されているようです。舗装路の終端は駐車場となっており、山登り目的だと、ここに停めることもできたようです。
弓坂から崩落現場をよじ登り、かごたて峠へ
登山路の手入れの行き届きぶりに驚きます。
この道を真っ直ぐに登っていくと、向かって右手に案内板があります。この案内板の反対側が、「弓坂」から「かごたて峠」に至る経路です。案内板では通行止めとされており不安を感じますが、インターネットでの踏破記録がいくつか発見できたことから、さすがにひどい目には遭わないだろうと、このときは考えていました(激甘でした)。
雨で表土が流されていました。それでもまだ登りやすいほうです。
足をとられないよう、慎重に登っていきます。
もう尾根が見えてきました。楽勝だな……。しかも、左右のどちらかにここで曲がれるようです。ただ、坂道の角度をかんがえるとこれを馬が通ったとは考えにくく、人間でも十数キロ背負うのがせいぜいでしょう。
それとも、現役時代はつづら折りになっていたのか……。
ほんの2,3分ほど歩くと、尾根側全体が崩落しており、どこにも道がないことに気づきました。なんとかよじ登れそうな急坂はあれど、植林された杉の根っこが浮いており、危険このうえありません。
周囲を見渡し、少しでも程度のよさげな場所に手を掛け、木の枝を頼りに、よじ登ります。快適に通れる道がほかにあるうえに、登山ルートからも外れていますから、こんなところを誰も修繕したりはしないのでしょう。
なんとか崩落現場をよじ登ってみると、尾根道に出ました。ピンクテープがあり、ちゃんとした登山経路か林業のかたの作業道に出たことがわかります。汗を拭きながら、GPSで位置を確認し、事前に聞いていた「かごたて峠」のほうへ向かいます。
「かごたて峠」の案内板がありました。参勤交代で使っていた道としっかり記されています。秋月藩の参勤交代の規模がどのくらいのものかはわかりませんが、基本的によほどの大国でないかぎり、領国を一歩出ればサクラや応援は全員解散、江戸参府する人員だけで道を急いだとされています。
尾根道でも比較的広かったこの場所なら、休憩もとりやすかったでしょう。
まずは、林道側を探る
この場所は、9月15日に歩いた経路(青線)とほど近い場所にあります。
まずは、山の反対側に下ることが出来そうか、確認してみることにしました。
来た道を引き返すと境界を示す標識があり、見ると道が二手に分かれています。ピンクテープのあるほうは、キャンプ場と一緒に整備された遊歩道で、登山道としても利用されています。もう片方は地理院地図とGPSを突き合わせると、どうやらこれが地理院地図に徒歩道(点線)で記載されているもののようです。
GPSと突き合わせながら下っていったつもりが、どう考えても尾根から離れすぎてしまいました。獣がよじ登った跡を見つけ、ここから尾根に戻ります。
尾根は歩きやすく、まったく手入れされていない状態でないことはわかります。境界石もところどころにあります。ただ、個人の山歩きならともかく、これが街道の一部とはとうてい思えぬ状態です。
巨石がありました。なんらかの祭礼的な意味合いがあるものなのか、たまたまここに在るのかもわかりません。いったんここで休憩し、このまま行くか戻るか思案します。
GPSを確認すると、どうやらこの近くまで前回登ってきているようです。こんな石見てないぞ……。
東側に進むと、境界石とピンクテープがあります。辺りを見回すと、既視感があります。
数分ほど山を下りていくと、15日に歩いた林道の終点が見えてきました。
巨石の脇をすり抜けて、尾根づたいに歩くなんて道が、物流の道として使えるわけがなく、さすがにこの経路はありえないだろうと、ここで考えました。
ただ、それは尾根道でつながっているなら、という前提です。前回も気になった場所があり、1枚撮影してみました。すでに崩落してとおれませんが、位置的にここが道だった可能性はあります。街道というより、集落間の移動につかう里道でしょうか。
もう一方を目指して
かごたて峠に戻ってきました。地理院地図などを見比べて、現行の登山経路ではなく、向かって左側の旧道らしき道をまず、試してみることにしました。
途中から藪となって先に進めなくなり、ちょうど現行の登山経路と合流したので、こんどはそちらを歩きます。こちらも道幅は狭く、落ちたらよじ登れない傾斜です。慎重に歩きます。
キャンプ場からの道と、弥山岳への登山路の合流点に出ました。
ここでコーヒーを飲みながら休憩していたところ、矢印のない方向に道らしきものが見えます。もしかして白坂越えか?
標識の脇から、下りてみました。
たしかにこれは道です。どうやら「かごたて峠」からの旧道らしき道は、ここにつながっているようです。この道幅なら、人馬が通る街道としての役目も果たせます。どうやらやっと、正解を引き当てたようです。
長年の風雨でほとんど埋もれかけてはいるものの、道跡ははっきりしています。
そう喜んでいたら、谷にさしかかりました。倒木と倒竹が幾重にも重なっています。
洗い越しとなっている谷間を横切り、倒竹で埋め尽くされた道の残骸を歩いていきます。
9月15日、先に進むのを断念した場所も、倒竹や倒木でひどい有様でした。
そしてなにが不快かというと、赤土層の上がずっと湿ってすべりやすく、足をとられることです。同じ感覚が足に伝わってきて、かなり近くまで来たことが、体感でわかります。
じくじくとした感触に耐えながら、竹ですっかり荒れた道の残骸を少しずつ進んでみましたが、崩落して足の踏み場がなくなり、ここで引き返すことにしました。
緑で書き入れた部分が推定経路です。
道幅の広さを考えれば、こちらが白坂越えの本道であったと考えてよいでしょう。最後までたどり着けなかったのは残念ですが、ここまで行けば、答えは出ました。
帰路、遊歩道を戻る
山中を何度も往復し、首に巻いたタオルが何回も絞れるほど汗をかいてしまいました。
さすがにもうこれ以上山中を徘徊する気力はなく、キャンプ場にむかう遊歩道をどんどん下山しました。
この遊歩道も、日当たりの加減ではシダで覆いつくされており、穴ぼこがないかどうか、確かめながら歩く必要があります。それでも、これまでの道なき道とは大違いです。ふつうの登山と変わらない喜びを感じます。
鉄橋を渡ります。
キャンプ場の管理棟よりも麓側、手前に出てきました。朝、この鉄橋はなんだろう?といちど見ていたのですが、こんなところに出てくるのですね……。
老人ホームと清流公園、そして車が見えてきました。
街道がなぜこの経路なのか
現在の県道66号は、桂川町土師から内山田まで、山を迂回する経路を通っています。この経路は、当時から物流の道としてもつかわれていたようです。
現在の県道66号を赤線、君ヶ畑から分岐して内山田に至る道を緑線、白坂越え(秋月街道)本道を青線で塗ってみました。多少の高低差はあっても、なるべく短絡する経路をとっていたことがわかります。
人馬が通れればよく、現代のように車が通ることを想定していないなら、この経路もありだったかもしれません。車が通れず、拡幅の余地がなかったから、そうそうに廃れたのでしょう。
歩いてみた感触でいえば、内山田から君ヶ畑まで登るより、(途中よじ登りはありましたが)湯の浦キャンプ場から弥山のほうがあきらかにトラバース路で、坂を感じずに済みました。
人馬にとって歩きやすい道が、必ずしも物流や車にとって良い道とは限らない。当たり前のことですが、あらためて感じた次第です。