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ニニギを祀る荒穂神社です。古代史マニアのホームページやブログでよく取り上げられており、かなり有名な場所ではあります。もう10年以上むかし、たまたま訪問したことがありましたが、それきりでした。
荒穂神社(荒穂宮)という名前からいけば、荒穂の神を祀る神社だと考えるのが自然です。では荒穂の神とは誰かというと、五十猛命(いそたける)とも猿田彦(さるたひこ)とも饒速日(にぎはやひ)とも呼ばれる、山幸彦のことなのです。
ちなみに本家、佐賀の基山の荒穂神社は、ニニギと五十猛命を祀るとしています。おそらく荒穂の神が、ニニギ(つまり英彦山・海幸彦・現皇室につながる一派)に制圧された姿を残しているわけです。
江戸時代は「馬見大明神」として祀られていたという記録があるそうで、すでにこの時点では、荒穂神社(荒穂宮)という名前すら消えかけていたことがわかります。
参道の石段途中に、恵比須社があり、社殿の左右に、須賀社と貴船社があります。
どうもよく分からないまま石段をおり、参道途中を見渡すといくつも石碑があることに気づきました。
庚申塔と猿田彦の石碑がずらりと並んでいます。決して、五十猛命(=猿田彦=山幸彦)の完全に記憶が失われていたわけではなかったようです。
推測するに、いくら古代の覇者・九州王朝関係者といっても現皇室の祖に立てついた五十猛命(=猿田彦=饒速日=山幸彦)を祀るより、ニニギを氏神としたい感情があったのではないかと思います。高木大神(高皇産霊神)と天照大神(卑弥呼)の娘婿、天之忍穂耳に現皇室はたどり着くのですが、ニニギは義弟となり、少なくとも地域の箔付けには申し分ないからです。
すると、ある時期までは現皇室の祖にあやかろうとする意識(権力への忖度?)が機能していたが、それすら歴史のなか忘れられ、過去の名前だけが復されてしまった……。そしてこの矛盾が表面化しなかったのは、基山からほど遠い筑豊・牛隈の地だったからでしょう。
敢えて無視した可能性もあります。
徳川家康が、出世のため藤原氏、源氏など複数の姓を使い分け、最終的に家光の代で源氏を祖とする系図改変を確定させたのは、よく知られています。負け組を先祖として担ぐより、曲がりなりにも皇室の関係者のほうが、地元民の精神的にも良かったのかもしれません。
福岡県神社誌:上巻357頁
[社名(御祭神)]荒穂神社(瓊瓊杵尊)
[社格]村社
[住所]嘉穂郡大隈町大字牛隈字下射場
[境内社(御祭神)]須賀神社、貴船神社、恵比須神社
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2021.03.20訪問)