美風庵だより

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8月15日の日録(ほぼ雑談)

これだけあった〝特攻隊員に覚醒剤〟外道の証拠 「チョコ包むの見た」証言から元教員が追跡 | 47NEWS

太平洋戦争末期、米艦に零戦機などで突っ込み、時に〝軍神〟とあがめられたり、時に「無駄死にだった」と切り捨てられたりもした特攻作戦の悲劇。出撃前の特攻隊員には覚醒剤「ヒロポン」が与えられていた。この問題は真正面から研究された様子がないが、大阪の元中学教員の相可文代さん(71)は、勤労奉仕で覚醒剤入りのチョコレートを包む作業に従事した女学生の実体験を知ったことをきっかけに独自に調べ、このほど冊子にまとめた。

私は頭がよくなかったので地元でも偏差値最底辺の盆暗高校にしか行けませんでした。

この底辺高校は数学教師が不足しており、定年退職後の教員を嘱託(非常勤)で雇って穴埋めしていました。そのなかにむかしはどっかの高校の校長先生なども勤められたけっこう年配のかたがおり、そのかたから西鉄飯塚バスセンターまで歩く途中など、よく若いころの話を聞かせてもらったものです。

若いころ映画をみて触発され飛行兵というのに志願したそうで、実機による訓練では、チョコレートを渡されたとのこと。「それを食うと体が温まり、かじかんでいた指先まで熱くなった」「なんの薬が入ってるかわからなかったが今にして思えばヒロポンやな」「輸送機の操縦士になったら、酒も機内にあるのよ。アルコールにその薬が溶かしてある。出発前のチョコレートなんかじゃ、途中で切れるから、薬が」「たしか15分しか持たないと言われた」「当時はわからんで黙って聞いていたけど、要はボロ飛行機乗せて、その間(効いている間)に突っ込めってことやから」とのこと。

YS-11 - Wikipedia

「戦後、生き残った戦友と海上自衛隊が導入したてのYS11に乗った。ほんとうは「人員」輸送機として購入したらしいんだが。国産だなんだとえらく宣伝しとったから期待しとったが、とにかく寒い。要はきちんと機体の気密ができてなかったんやな。今の飛行機とは大違い。あれに乗ったあと、(当時のことを思い出し)戦友と、今の技術でこれなら、むかしのボロ戦闘機なんてこれよりもっとひどかったはずで、薬でも盛らんと、そら、まともに操縦でけんかったんやろなぁ」と言い合ったとのこと。

メタンフェタミン - Wikipedia

1888年(明治21年)に日本の薬学者長井長義が『麻黄研究物質第33号』として合成して、1893年(明治26年)に薬学雑誌に発表した[5]。1919年(大正8年)に緒方章が結晶化に成功した。
覚醒作用や依存性は、合成に成功した当時は発見されず[6]に発見以後も注目されていなかったが[7]、1938年にナチス・ドイツが薬剤のペルビチン (Pervitin) として用いると、1940年に嗜癖性と1954年までに20数例の精神病がそれぞれ西ドイツ、スイス、チェコスロバキアなどから[8]報告された。第二次世界大戦時は、連合国軍と枢軸国軍の双方で、航空機や潜水艦の搭乗員を中心に士気向上や疲労回復の目的で用いられ、アメリカ陸軍刑務所で、従業員と受刑者約1,000人のうち約25パーセント (%) が乱用[8]した。
大日本帝国でも戦時の勤労状態や工場の能率向上のために使われ[9]、1945年(昭和20年)9月2日の日本の降伏後に、日本軍保有品のヒロポン注射剤[10]が市場に放出され、非行少年や売春婦に乱用が拡散[11]した。
日本は、1949年(昭和24年)に一般人の製造を禁止するが、密造品が広まり[11]ヒロポンなどのラベルが貼られた[12]。1949年10月に厚生省次官通知で各製造会社に製造の自粛を要請し、1950年(昭和25年)に製造会社ごとに製造数を割り当てたが、富山化学工業は5万本の割当に800万本も製造するなど効果はなかった[13]。東京大学医学部附属病院神経科で1946年(昭和21年)9月に、東京都立松沢病院で1948年(昭和23年)3月に[14]、それぞれはじめて中毒患者が入院した。1951年(昭和26年)に覚せい剤取締法が制定されると、1952年までに入院患者数は激減し[14]、1954年に5万5,000人超であった検挙者数は1957年に1,000人を下回ったが、1971年(昭和46年)に1万人を超えた[15]。

(略)

「パイロットの塩」などと呼ばれるほど、塩なみのパイロットの必需品として使用していたドイツ空軍[29]にならって、日本軍においても航空機パイロットに対しても支給された。戦闘機パイロットにはナチス・ドイツよりの「Fliegerschokolade」の情報を元にして生産された「ヒロポン入りチョコレート」が、疲労回復目的で支給されている[30][31]。

富山化学工業 - Wikipedia

1940年代、富山化学はネオアゴチン注射液(ヒロポンに代表されるメタンフェタミン系覚せい剤)の製造を行っていた。当時、覚せい剤は合法的な薬物であったが次第に乱用が社会的問題となったため、1950年3月、厚生省は覚せい剤を製造していた各社に生産量の割当を行い流通量の抑制を図った。この際、富山化学に割り当てられた生産数は第二四半期分として52,000本であったが、経営陣はこれを無視して大量生産を続行。8,043,564本を生産する一方で、厚生省には生産数を30,800本とする嘘の報告を行った。(略)薬事法違反として1951年2月1日から2か月間の業務停止命令を発した。朝日新聞のインタビューに応じた常務は、「従業員の給料も滞りがちだったので、背に腹は替えられないと思ってやった」と戦後の混乱ぶりが伺える弁明を行っている[3]。

富山化学工業(現 富士フィルム富山化学)は、いまアビガンで有名ですね。

ヒロポンは日本の発明であり世界中で疲労回復の著効薬としてバンバン使われていた時代でした。戦後、日本軍の備蓄が市場に出回り、中毒患者が大量に出て、副作用が認識されるようになり、現在に至ります。

さすが「月月火水木金金」の時代の産物としか言いようがありませんが、この記事の発想はどうなのかな?という気がします。時代劇とか、覚せい剤中毒患者のドラマとか、ああいうのを見すぎなんじゃないかと思うのです。

覚せい剤の歴史

その頃は覚醒剤の問題点(中毒性や精神障害など)は知られておらず、普通に薬局で市販されていました。宣伝の惹句は「除倦覚醒」で、内服用に1mgの錠剤のみ販売されていました。当時の覚醒剤は4~5mgもあれば十分に効果があったので、錠剤4~5錠飲んで徹夜するというのはわりと当たり前の光景でした。
軍隊でも軍需工場でも覚醒剤の使用が始まりました。よく特攻隊が自爆攻撃できたのは麻薬を服用していたからだといわれますが、これは事実でしょう。ただし、繰り返すように当時は普通の市販薬だったので、特に悪いことではなかったはずです。
薬害についても、戦時中は命令的に適量を一時的に使っていただけなので、深刻な被害は出ませんでした。

ほんとうのところは、私なんかの知る由もありませんが、読者の食いつきが良ければなにを書いてもよいというものでもないでしょう。

上記のサイトのほうがよほど正確に、状況を記しています。

 

雨がやんだこともあり、むかしお世話になっていたかたの家と、今月亡くなり来年が初盆となる伯父の家に、線香箱を持参することにしました。

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国道500号を通ろうとすると、江川ダムの手前で通行止めでした。しかたがないので、八丁トンネルのほうへ迂回します。

2軒めをまわり終え、甘木に戻る前に1枚、どのくらい汚れたかを撮影してみました。赤土でボディがすっかり汚れてしまっています。このくらい汚れたらさすがに洗車機に持っていくのですが、明日も雨らしいし、放置しておくことにしました。

途中、空き地に停まっている車をよく眺めると、福山ナンバーとか熊本ナンバーとか、ぞろぞろと筑豊ナンバーでない普通車が停まっています。なんだかんだ言って、みんなお盆に帰省しているのですよね……。

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前日が大雨だったのにのこのこ出てきたことに感謝され、1軒目では、いくらやめかぶの醤油漬け、2軒目では炭酸水を1箱いただきました。「お盆に帰れないからと孫が送ってきたが食べきれない」「お盆に(子供が)帰ってきたときのために買っておいたが来なかった」とのこと。

翠風 短寸 1把入 - 山田松香木店 オンラインショップ

山田松香木店「翠風 短寸 1把入」 - 美風庵だより

安物しか持って行ってなかったので、ちょっと複雑な気分……( 一一)

これで初盆やお通夜用の買いだめを使い切ったことになり、あらためて線香箱を山田松香木店のホームページから、注文しておきました。