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山口瞳『血族』の舞台となった柏木田遊郭跡を歩く | Nostalgic Landscape
遊郭の南側にある穴守稲荷。
柏木田は女郎に対してひどい扱いをする妓楼が多かったそうで、病気になっても医者に診せず何も食べさせずに座敷牢に放り込んで、死んだらこっそり夜中に捨てに行く。そのためか、経営者の家はどこも絶えてしまい地元ではそれを祟りと呼んで恐れていた。
このお稲荷さんに祀ろうとしたこともあったそうだが、誰も金を出さないので立ち消えてしまったらしい。
【続編】軍港の街である横須賀の裏歴史が眠る「柏木田遊郭」の歴史を掘り起こしてみた! | ページ 2
遊郭エリアの端っこには町内会館の隣に穴守稲荷神社があります。この神社に関しては私が調べた限りどの資料にも記載されていなかったので、詳しい詳細は不明。。ただし、「穴守」というと穴とは多分あの穴でしょう。。
明治中頃から戦前にかけて、川崎大師とかわらぬ集客力を誇っていた穴守稲荷神社の分祠・分社について調べていると、いくつかのパターンがあることに気づきます。ひとつは講社(同じ信仰をもつひとの集団)が自分たちの地元に分祠・分社を誘致するケースであり、もうひとつは商売繁盛等を祈願して誘致するケースです。ただ、どうも資料を漁っていくと、いずれのケースでも花街(今でいう性風俗産業)の支持が無視できないことが見えてきます。
社殿を新築してから、徐々に現世利益を求める神社として繁栄していった。きっかけになったのは、「穴守」と言う意味が「女性の病気」を守るという解釈がなされたため「花柳界、遊郭」の人々に強く信仰されたからである。
『私がものごころついた時には、多摩川支流の海老取川にかかる稲荷橋には花柳界の人たちが寄進した鳥居が一キロ以上もびっしりと並んで、橋を渡って穴守稲荷までは、雨の日でも傘がいらないほどだった。』著者が子供の頃、昭和初期の頃の話である。(『我が海、我が町 羽田魚師の今昔』伊東嘉一郎著 (株)心泉社発行)
この横須賀にある穴守稲荷も、今でいう性風俗産業のかたが誘致した分祠・分社というわけです。
電鉄は聖地をめざす 都市と鉄道の日本近代史 (講談社選書メチエ)
上記の本を読んでいると、穴守稲荷の周辺には海水浴場、展望台、競馬場、釣り場、温泉といった通常の娯楽だけでなく、連れ込み宿(ラブホテルですね)なども相当数あったようですから、ふつうの神社の門前町だったというより、歓楽街・観光地の中心に神社があった、というのが適切だったようです。
じつは穴守稲荷に年数回お参りさせていただくようになってから「婦人病のお守り」として、この神社のお守りを受けて帰るご婦人を何回か見かけました。そのとき、なぜか神職のかたがそれまでと違って冷たい対応をされていることが多く、どこか不思議な感じがしていたのですが、あまり触れられたくない過去なのかもしれません。
大正時代に奉納された手水鉢には、大美楼とあります。どうやらこの地にあった遊郭のようです。
ちなみに柏木田遊郭には角海老楼もあったとのこと。いまも吉原のほか30店舗の大人のお風呂屋を経営する角海老グループですね……。実際には屋号だけ譲り受けた別法人が経営しているらしいですが……。
この道の両側に大人のお風呂屋がずらりと建ち並び、約100年前、海軍の水兵が2,000名も乱闘事件を起こしたりした場所だとはとうてい思えぬ静けさです。
山口百恵さんが通った中学校はここから10分ほど歩いた場所にあります。
(2020.12.20訪問)