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印鑰神社
神社には「枡」をご神体とする所が多いが、これは神社の祭事は同時に村全体の響宴であり、そのために紊める経費を定める尺度となるものが、この大切な「神事枡」そのものであるからである。
神社の「鍵」もしばしば神としてまつられ、和歌山県熊野新宮には鑰宮(かぎのみや)があり、御井の高良山では「印鑰大明神」といっている。
宗崎の印鑰神社は、明治六年に村社となった。
明治四十一年に建てられた鳥居のそばには、「文化元甲子年(一八〇四)十二月吉日、願主 宮原彦平衛、氏子中」と刻まれた一風変った常夜燈が置かれている。
この神社のご祭神は、高良山と同じ武内宿祢をまつっている。木製の宿祢の像の底面に「天保二辛卯四月(一八三一)三月二十九日、舟邑、久富丹波記」と明記されている。
同吊の神社は国府跡などに奉祀されていることが多く「印」は国印「鑰」は国倉の鍵を指すものと思われるが、ここでは高良山の宝印と、社殿の鍵の意であろう。またこの社の創祀は、高良山の大宮司(宗崎氏)がここ宗崎に移り住んだ天文年間(一五三三?一五五四)中以降と思われる。(古賀寿著『高良山の史跡と伝説』より)
寛文十年(一六七〇)『久留米藩社方開基』によると、当時の社殿の大きさは「一間四面之茅葺」とある。現在の社は、慶応三卯年(一八六七)宗崎村庄屋、末次新太郎の時代に再建されたもので、社の大きさは神殿、拝殿合わせて幅五・六メートル、奥行十メートルとなっている。
この社も再建から百十数年の歳月が流れ老朽化が進み、昭和五十八年には損傷のひどい個所の修復工事が行なわれて屋根瓦などは現代のものとなっている。境内坪数二三八坪、氏子戸数五十一戸(昭和一九年調)この数字は今も余り変わっていない。
前記の『社方開基』によると、宗崎には天神宮があり、神殿の大きさは印鑰神社と同じ、一間四面、茅葺きとあるが、現在ではこの天神宮は跡形もない。しかし調査を進めているうちに、印鑰神社の神殿に武内宿祢と並んで菅原道真の像(久留米仏師、本村半□□勝之作)がまつってあることが判った。この菅公は昔あったとされる天神宮とかかわりがあるのではないかと思われる。この印鑰神社を地元の人は「ごしんさん」と親しみをこめて呼ぶ。例祭は十二月十八日、氏子達は町内毎の持ちまわりで座元を勤め、男衆は注連繩を新しく作り替え、早朝からおこわを蒸すなどして神前に供え、女衆は他の料理を担当する。神事も終り夕方になると大きな松明に火をともして、御幣を次の座元まで送り届ける。また夏祭(よど)は七月十七日で、戦前までこの「よど」は村人達の唯一の楽しみであった。子供の大好きな露店が並び、夜は青年団主催の余興などもあり、地元の人は勿論、近隣の村々からも大勢の見物客が訪れて賑わったらしい。
最近の「ごしんさん」は、信心深い宗崎の人が数人毎朝おまいりにくる程度で、残念ながら昔のにぎわいは見られない。
高良大社本殿の裏手にある末社の印鑰神社は、この宗崎の印鑰神社を勧請したものと以前教わった記憶があります。末社では、大宮司家の祖先を祀るとされており、こちらのほうが宗崎にある案内板より、なぜここで祀られることになったのかが理解しやすいでしょう。
これまでにも多くの「印鑰神社」を訪問させていただきました。玉垂命の一族を祀る神社であるというふうには理解しているのですが、どうもまだ確実なことがわかりません。いろいろ考えてみる必要がありそうです。
福岡県神社誌:中巻162頁
[社名(御祭神)]印鑰神社(武内宿禰)
[社格]村社
[住所]三井郡御井町字宗崎
[境内社(御祭神)]記載なし。
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
福岡県神社誌:上巻51頁
[社名(御祭神)]高良神社(高良玉垂命、八幡大神、住吉大神)
[社格]国幣大社
[住所]三井郡御井町高良山
[摂社(御祭神)]高良御子神社(朝日豊盛命、暮日豊盛命、斯礼賀志命、渕上命、谿上命、那男美命、坂本命、安志奇命、安楽応寶秘命)、豊比咩神社(豊玉姫命)
[末社(御祭神)]真根子神社(壱岐真根子命)、印鑰神社(高良神社の印鑰)、稲荷神社(倉稲魂命)、愛宕神社(加具土命)、御祖神社(天照大神)、天満神社(菅原道真公)、八幡神社(応神天皇)、琴平神社(大国主命、崇徳天皇)、厳島神社(市杵島姫命)、水分神社(水分神)、味水御井神社(水波能売神)(2020.10.24訪問)