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さきほど訪問した勝山宮原地区の若宮八幡神社とほぼ祭神は同一ですが、安閑天皇が増えています。福岡県神社誌に、大正12年(1923年)に字河内山の金峰山神社を合祀したとあり、蔵王権現の神様として、安閑天皇が加えられたことがわかります。
後世、神仏習合の教説で蔵王権現と同一視されたため、明治時代の神仏分離以降に、従来蔵王権現を祭神としていた神社で安閑天皇を祭神とし直したところが多い。
ここで重要なのは、安閑天皇の皇居は「勾金橋宮(まがりかなのはしのみや)」と呼ばれている点です。この勝山浦河内地区から車で近い場所に、現在は田川郡香春町の一部となっていますが、勾金村が存在しました。
安閑天皇の在位は531年~536年ごろとされており、この時代、高良玉垂宮は存在していますが、まだ宇佐神宮は成立していません。
高良玉垂宮神秘書では、聖武天皇の時代に宇佐宮が造営され、九州宗廟を譲ったとありますから、おおよそ700年ごろです。また、神秘書をはぐっていると、香春岳を高良峰としている記述が目にとまります。「彦権現は敵神」と名指しで敵視している同書ですが、この記述からも、元々は玉垂宮の(神武天皇から玉垂命につづく正統王朝)と、彦権現(天之忍穂耳とその子孫である崇神天皇一派)の権力闘争が見えてきます。
しかし即位が決定したはずの菟道稚郎子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとした。大鷦鷯尊はあくまで菟道稚郎子を即位させるつもりだったので三年も続く皇位の譲り合いが始まってしまった。貢物の届け先を巡って海人が右往左往する逸話が残っている。事態を重く見た菟道稚郎子は自ら死を選び(『古事記』では病死)、大鷦鷯尊が即位することとなった。
おそらく、こういうかたちでしか権力闘争を表現できなかったのではないか?といまは考えるようになりました。なかなか歴史は奥が深い……。
拝殿をみると、なにやら歌人の肖像画とおぼしき絵が多数掲げられています。これはいったい……。
福岡県神社誌:下巻274頁
[社名(御祭神)]若宮八幡神社(誉田別天皇、兎遅若郎子命、大鷦鷯天皇、安閑天皇)
[社格]村社
[住所]京都郡諌山村大字浦川内字イノ原
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2020.10.03訪問)