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通常、境内社を別項で扱うことはしないのですが、たいへん重要な存在であるため、分けて紹介することにしました。
福岡県神社誌では大山祗(おおやまつみ)を祀る松尾神社となっていますが、現地案内板のとおり、大山咋を祀る松尾宮が正しいと思われます。現地の案内板を、書き起こしてみましょう。
現在の地に祭祀されたのは大正九年で、それ以前は裏側の道路で隔てたお茶畑のある所にあったそうです。
江戸時代後期に編纂された『筑前国続風土記付録』には「松尾宮 マツオヤマ 神殿方五尺・拝殿二間三間半 祭礼六月二九日・奉祀福生坊 産神也。大山咋命を祭る。鎮座の初詳ならず。社地に神木の松一株有り。」と記述されています。この本以外は、永岡村の産土神を八幡宮にしていますが、ここでは松尾宮が産土神となっています。
由緒は不詳ですが、明治初期に編纂された「福岡県地理全誌」には、
「村ノ北一町。木殿(キノドン)山ノ上ニアリ。里伝ニ、甚ダ古キ社ニテ、(神功)皇后、熊襲御征伐ノ時、此処ニテ、御腹痛シカバ、此神ニ祈リ玉ヒテ、癒タリト云。」と、その当時この地に残されていた伝説が紹介されており、松尾宮がかなり古い歴史を持つことを窺がわせています。
この松尾宮の宮司をしていた「福生坊」は宝満山の山伏です。石段の上にある鳥居は福生坊が寄進したものです。安永3年(1774)の銘があります。
また、松尾宮は酒の神様あるいは商売の神様として信仰をあつめていたようです。弘化三年(1846)の社殿の再建に際しては、近在の酒造屋、庄屋、商人など約30人が寄進しています。嘉永二、三年の拝殿の改築にも合わせて約23人が寄進していますが、遠くは田代や木山口などの地名が見られ、幅広い地域で信仰されていたと思われます。
2007年に国土地理院が撮影した航空写真の一部を改変してみました。八幡宮にほど近い場所に存在していたことがわかります。
天之忍穂耳(英彦山)と市杵嶋姫の子が大山咋です。のちに市杵嶋姫が大己貴(大国主)を頼ったため、いわば大己貴(大国主)にとって「義理の子」となります(連れ子とも言いますが)。そのため、大山咋は「大物主」を名乗るのです。
その大山咋と玉依姫の子が崇神天皇であり、さらに崇神天皇と神功皇后の子が応神天皇なのですから、一族がずらりと祀られていることがわかります。
永岡八幡宮の境内にはほかに3社、お宮がありました。愛嶽社に関しては、おそらく防火の神様として後世祀られたのでしょう。ほかの鹿島社の武甕槌神とは、(松尾宮に祀られた大山咋の父)天之忍穂耳のことであり、少彦名命は、大山咋に酒造りを伝えたという伝承があることから、これもまた関係者とみて差し支えありません。
最後に付け加えるなら、玉依姫が息子の東征が成功するよう祈願した宝満宮の山伏が宮司をしていたというのも、意味深いものがあります。
舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。
神武東征として伝えられる伝承は、崇神天皇による日本制圧(四道将軍:よつみちのいくさのきみ)をさらに古い時代の神話(神武東征)として焼き直したものです。通説どおりなら宮崎を出て福岡に船で着き、さらに折り返して宇佐に行くわけで、なぜ敢えてこの経路を通るのか、若いころ謎でした。いまなら、神武天皇の足跡としてこじつけるため、起点を宮崎に持って行ったことがわかります。
標準地域コード インデックス | 国勢調査町丁・字等別境界データセット
実際には、旧筑紫郡筑紫村大字筑紫に近く、太宰府も近いこの一帯こそ、日本の首府(少なくとも「首都圏」)だった時代があるのです。
もう一つついでに言えば、神武天皇もおそらく最初から宮崎出身ではなく、現在の福岡市~糸島半島~唐津に至る一帯が一族の起源だったのではないか、という気がしています。これも、各地を訪問しているうちに、もっと明瞭に見えてくると思います。
福岡県神社誌:中巻62頁
[社名(御祭神)]八幡宮(応神天皇、神功皇后、玉依姫命)
[社格]村社
[住所]筑紫郡筑紫村大字永岡字城ノ内
[境内社(御祭神)]鹿島神社(武甕槌神)、少彦名神社(少彦名命)、松尾神社(大山祗神)
(2020.09.26訪問)