この記事は以下の続編です。
生活困窮者です。
これまで歩いたことがない経路を体験してみようと、先週に引き続き、今週も高良山に登りました。
王子池が見えてきました。坂を下り終え、池の周囲を歩いて、元キャンプ場に向かいます。
前回訪問時は、ここに車を乗り入れてキャンプをされているかたが居ました。今日は誰も居ません。学生の頃、何度かテントなどの試し張りで使った記憶があります。
おそらく甘木はこのあたりでしょうか。方角的にはあっているはずですが……。
さっきうどんを食ったばかりですが、道具を一式持ってきているため、ここで「外食」することにしました。
今回は、SOTO(新富士バーナー)のミニ焚火台を五徳に使って、クッカー(アルミ鍋)でお湯を沸かして、カップヌードルと紅茶をいただきました。バスセンター構内のローソンで買ったドライソーセージ(サラミ)のスライスも焙ります。ドライソーセージのスライスを焙ったのは失敗でした。冷たい状態だと「ちょっと辛い」程度なのが、熱せられて焼けてくると、コショウの辛さが数倍に感じます。辛いものが苦手なはずなのに、余計なことをしてしまったようです。
食後、怖さを感じるトイレを借りて、ふたたび王子池に下り、今度は妙見神社を経由して吉見嶽コースに向かいます。
道を登っていくと、左手に妙見神社が見えてきました。
ここは以前の日記にも書いたとおり、明治の神仏判然令の際、いったん高木社として届け出たもので、その内実は、剣花菱紋の妙見宮でした。(剣)花菱紋は玉垂命が使った紋章であり、九州王朝の正式な紋章でもあります。
過去の権力者を祀り上げ、封じ込めるために存在する伊勢神宮の紋章が花菱紋なのは、偶然ではありません。
鎌倉時代には、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用した。その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに32弁の八重菊紋である十六葉八重表菊が皇室の紋として定着した[2]。
江戸時代には幕府により厳しく使用が制限された葵紋とは対照的に、菊花紋の使用は自由とされたため一般庶民にも浸透し、菊花の図案を用いた和菓子や仏具などの飾り金具が作られるなど各地に広まった。
花菱紋や桐紋といった過去の権力者も使った紋章ではなく、背乗り王朝が独自の紋章を定めるのは、菊花紋まで待つことになります。
googleマップによれば、どうもこの近くに「薬師堂」があるようです(冒頭の地図では(?)と表記しています)。位置的に、あるとするなら阿志岐坂のはずです。
分岐で阿志岐坂コースに入ってすぐ、想像以上に道が荒れているのに驚きました。このルートは、うまく歩くとJR御井駅に向かう最短コースのため、以前はそれなりに客が居たのですが、どうやら寂れてしまっているようです。直登・直帰コースでべつに見どころがあるわけでもありませんし、面白くない道ですからね……。2000年にJR久留米大学前駅が開業して、どこの観光地図を見てもJR久留米大学前駅から高良山に登る経路が案内されるようになった影響かもしれません。
googleマップの座標から言えば、このあたりのはずなのですが、枯れ枝が多く全体的に雨風で路肩も崩れてきており、それらしきものは見かけません。諦めて引き返すことにしました。
元の分岐点まで戻り、2分ほど登ると、吉見嶽・北谷コースと高良大社側の分岐点が見えてきました。
先日も通った吉見嶽・北谷コース、王子池方面と、高良大社側の三差路にたどり着きました。
ここでふと地理院地図を確認すると、北谷コースをショートカットする道があるようです。
なにやら怪しい荒れ具合ですが、下ってみることにしました。
かろうじて道だったことがわかる程度で、実態はほぼ廃道でした。ただ、歩いていると人工林の地べたが、段々になっているのに気づきます。どうやら、階段状に住居か何かが建っていた跡のようです。高良山が繁栄していた頃は、お坊さんたちの宿坊がある生活道路だったのでしょうか……。
舗装された北谷コースを歩きながら、以前から気になっていた(C)の道を探します。
(4)へつづく。