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橘紋が御神紋の阿蘇神社ということで、古代史研究家の皆さんが早くから注目していた神社です。
気になってはいたもののなかなか訪問する機会がなく、今回が初訪問です。
境内に足を踏み入れてまずは一周します。社殿から延びた参道と、鳥居がある社地への出入り口がずれているのに気づきます。むろん、このようなつくりの神社がほかにないわけではありませんが、不思議な印象を受けます。隠すべき存在であったのか、ほかに理由があるのか……。
社殿裏に立派な御神木があり、もしかするとこの木を活かせるよう神社を建築したのかとも考えたのですが、どうもよくわかりません。
一段高いところに摂社の石祠が並んでいます。石祠前の広庭に立ち、三郡山地・古処山地のほうに目をやります。眼下に広がるのは筑後川です。
……おそらく、いま摂社とされているこの石祠のある場所が、元々の祭祀の場だったのではないでしょうか。いまのお宮は、ほんらいは拝殿としての役割を担うものだったのでしょう。
福岡県神社誌に記載された御祭神を眺めていると、神功皇后の三韓征伐に従軍したメンバーがずらりと並んでいることに気づきます。神功皇后ご本人に、阿蘇津彦(健磐龍)に、玉垂命の息子さんたち(勝村大明神・勝頼大明神)……。
ほかの御祭神の顔触れも、この地域ではおなじみの皆さんです。
国魂神とは大山祇の子 大己貴(大国主)です。
大地主神は、大幡主のことです。
浅間之神は、この場合木花開耶姫命の父 大山祇でしょう。
つまり、大山祇・大幡主ご一党への祭祀が根底にあり、そこに神功皇后の三韓征伐の記憶が重なり、さらに橘紋が示す(大幡主の子)豊玉彦の一族で上書きされた三重構造の神社なのです。
ただ、そうなってくるとなぜ、健磐龍を祀る阿蘇神社が前面に出てくるのか……。
以前、地域の水利争いに勝利するため宮地嶽神社の勧請が流行した時期があるのを知りました。武神としての性格が買われ、主祭神として残されたのでしょうか。
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福岡県神社誌:中巻220頁
[社名(御祭神)]阿蘇神社(健岩龍命、神功皇后、国魂神、木花咲耶姫神、勝頼大明神、勝村大明神、浅間之神、大地主神)
[社格]村社
[住所]浮羽郡竹野村大字地徳字栗尾
[境内社(御祭神)]四柱神社(八十国魂神、宮地嶽神、浅間之神、地主神)、稲荷神社(倉稲魂神)
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(2020.07.04訪問)