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6月21日、所用で小倉に行きました。
そのまま、下関市長府の忌宮神社に足を伸ばします。
基本的な事柄については過去の記事や上記の「玄松子の記憶」をお読みいただくとして、今回、あらためて記事として取り上げたのは、本殿の両脇に若宮社と高良社がある社殿の構成にいまさらながら気づいたからでした。
高良社の御祭神は地主大神・武内宿禰とされています。これが高良玉垂命を隠すための工作であることは、この日記をお読みのかたなら、すぐに勘づくはずです。そして「玄松子の記憶」にあるとおり、高良社に地主大神が祀られているということは、足仲彦も神功皇后も玉垂命も「地主」ではないのです。この地をもともと統治していたのは誰だったのか……。
さらに本殿をはさんで反対に若宮社があり、こちらの御祭神は仁徳天皇とされています。神功皇后という后を挟んで、旦那と子供が祀られているのです。
ここは聖母宮としての性格と、玉垂宮としての性格の両方を兼ね備えた存在が基本形だったことになります。これだけ何回も来ていていまごろ書くか、という話ではあるのですが、足仲彦(仲哀天皇)の拠点という点ばかりに目が行き、この神社の性格を見誤っていたというほかありません。
「忌宮」と「斎宮」は同義であると神社の由来が書かれた案内板にあります。
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仲哀天皇8年(199年)に天照大神と住吉三神による託宣を疑ったため筑紫の香椎で亡くなった仲哀天皇を、神功皇后が三韓征伐からの帰途、豊浦宮の跡に祀ったのに始まると伝える。聖武天皇の時代に神功皇后・応神天皇を奉斎して、仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」、応神天皇を祀る神殿を「豊明宮」と称し、三殿別立となっていた。中世に、火災により全て「忌宮」に合祀したことから「忌宮」と呼ばれるようになった。延喜式神名帳では「長門国豊浦郡 忌宮神社」と記載され、小社に列している。
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wikiを読むと、当初はそれぞれが別に存在したことがわかります。
ほんらい記紀に従い関係をクローズアップしたいはずの足仲彦(仲哀天皇)や応神天皇とは最初別宅で、再婚相手の玉垂命と玉垂命との子 仁徳天皇のほうが身近に存在していたということが、いかに重大なことかわかります。
これは福岡市東区の香椎宮でも同様で、最も関係をクローズアップしたい足仲彦(仲哀天皇)より、(おそらく玉垂命を祀るであろう)武内神社のほうが傍にあったのです。
このことは、ある時期まで記紀よりも現場の記憶(神功皇后は玉垂命(開化天皇)の妃で、二人の子が仁徳天皇(斯礼賀志命(しれがしのみこと)が優先していたということを示しています。記憶が薄れていくにつれて、記紀にもとづき、現王朝の都合がよいように改ざん・創作されていったのです。
忌宮神社が御神紋に白鳥紋を使用するのは、足仲彦(仲哀天皇)が日本武尊の子であることを示しており、この部分だけ、どうやら豊浦宮から引き継いだようです。
(2020.06.21訪問)