美風庵だより

幻の花散りぬ一輪冬日の中

久留米市田主丸町中尾 天満神社


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福岡県神社誌には、明治に複数の神社を統合・合祀した経過が記されています。

自転車で近付くと、赤い御神灯が複数見えます。「ここは菅公メインの天満宮で、近隣のほかの神社を合祀したのだろう」と軽く考えて近づいていくと、梅鉢紋のある公家風の飾りではなく、鷹を前面に押し出した武神っぽさがあります。

扁額をのぞき込んで驚きました。加藤神社、つまり清正公を祀る錦山神社の社名が右なのです。現在では西欧風に夫が向かって左・妻が向かって右というのが一般的ですが、ほんらいは向かって右が上座です。つまり、菅公よりも清正公のほうが格上として扱われていることになります。

福岡県神社誌では摂社とされている神社のほうが、格上に扱われているということです。清正公信仰の根強さに驚くほかありません。

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本殿の神前幕を見ると、梅鉢紋が右にあります。御神体は菅公が右側にあるということです。扁額と本殿で序列が逆転しています。

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境内の一段高いところに天満宮の石祠があります。これが福岡県神社誌でいう今瀬神社なのかもしれません。

じつは本殿には清正公しか居ないのではないか?菅公はここに追いやられているのではないか?と疑問を感じます。旧浮羽郡田主丸町に来たとたん、それにしてもこの清正公信仰の篤さはどういうことなのでしょう?調べてみる必要がありそうです。

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みのうの豆本

いまは昔、河童の先祖はパミール山地の一渓水、支那大陸の最奥、中央アジア新琵省タクラマカン砂漠を流れるヤルカンド川の源流に住んでいました。寒さと食糧不定のため、河童たちは二隊に分かれて大移動を開始しました。一隊は頭目貘斉坊(ばくさいぼう)に率いられて中央ヨーロッパハンガリーの首都フタペストに到着し、この地に棲息しました。頭目九千坊は、瑞穂の国日本をめざし部下をひきつれて黄河を下り黄海へ出ました。そして泳ぎついたところは九州の八代の浜です。仁徳天皇の時代、今からざっと干六百年の昔です。九千坊一族は、球磨川を安住の地と定めました。 
三百三十年前、肥後の国の城主は加藤清正でした。清正の小姓に眉目秀麗な小姓がいました。清正寵愛の小姓に懸想した九千坊は、約り糸をたれていた小姓を水底に引きずり込んで、尻小玉を抜いて殺してしまいました。清正公は大いに怒り、九千坊一族を皆殺しにせんと九州全土の猿族を動員することとなりました。関雪和尚の命乞いによって球磨川を追放された九千坊一族は、水清く餌豊富な筑後川に移り、久留米の水天宮(安徳天皇平清盛と時子二位局とを祀る筑後川治水の神)の御護り役となりました
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清正公に追われた者が清正公を祀るというのも不思議な話です。

家族を殺した相手、土地から追放した相手を拝むのに近いわけで、どうもこの話は信用ならない寓話に思えます。ただ、清正公と田主丸の地に縁故があるのは確かなのです。
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[福岡県神社誌(抄)]中巻215頁
[社名(御祭神)]天満神社(菅原神、大物主神罔象女神
[社格]村社
[住所]浮羽郡竹野村大字中尾字内畠
[摂社(御祭神)]加藤神社加藤清正公)
[末社(御祭神)]今瀬神社(菅原道真
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[福岡県神社誌(抄)]下巻422頁
[社名(御祭神)]加藤神社加藤清正公)
[社格]無格社
[住所]浮羽郡竹野村大字中尾字西畑
[境内社(御祭神)]記載なし。
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(2020.03.14訪問)