大きい地図・ルート検索 ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )


立派な社殿にふさわしい立派な方位盤と扁額です。
誰がこの扁額を書いたのかと眺めていると「天穂日命八十代孫千家尊福謹書」とあります。驚きました。
天穂日命は、記紀では天照大神とスサノオの「うけい」で生まれたとされています。これは大嘘です。
神社めぐりをしていると、ほかの「うけい」で生まれたとされる神様たちの出身地や出身母体(部族)の違いが見えてきます。記紀は、すべてを天照大神(と高木大神=高皇産霊神)に結びつけるための創作をしているのです。
天穂日命も、ほかの神様の別名だろうとは思っていたのですが、それが誰なのかまではわかっていませんでした。
-------------------------------------------------
この神は、国譲りの交渉役に選ばれて出雲の大国主神の許へ行ったが、大国主神に心腹して三年も報告しなかった。
『日本書紀』では、その後、この神の子の大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)、またの名を武三熊之大人(たけみくまのうし)を派遣したが、 父神同様に戻らなかったとある。
その次に派遣されたのが天稚彦である。
ただし『出雲国造神賀詞』では、交渉から戻った後、再度、御子神・天之夷鳥命をともなって天降り、 荒ぶる神を征服し、「国作之大神」、すなわち大名持神を鎮めたとある。
----------------------------------------
後に他の使者達が大国主神の子である事代主神や建御名方神を平定し、地上の支配に成功すると、大国主神に仕えるよう命令され、子の建比良鳥命は出雲国造及び土師氏らの祖神となったとされる。
----------------------------------------
どういう神様として扱われているか、判りやすいと思われる部分を引用しました。
ここから読み取れるのは、大己貴(大国主)と同輩か目下なのか?という点です。ところがそうなると、いったい誰をさすのか、皆目見当もつきません。説得に失敗したら延々80代にわたってお目付け役・監視役を押し付けられるとか、いったいなんという過酷な罰ゲーム……。
この扁額を見るまで、えらく損な役割を押し付けられた天つ神(高木大神・天之忍穂耳一派)の一族だなぁ、可哀想にと考えていました。ところが、社殿の階段に座ってどういう文章を書くか考えていると(本当に罰ゲームなのか?)とふと、閃いたのです。
高木大神・天之忍穂耳一派にしても、大己貴(大国主)が聞く耳を持たない者を派遣するわけにはいきません。すると、それなりの人物を仲介役に立てることになります。
以前から熊野の速玉男について誰なのか考えてきましたが、亀甲紋つながりであることを考えれば、大幡主(=博多のお櫛田さん、タノカンサー、国常立命、神皇産霊神)とその一族だと見るのが正解でしょう。少なくとも、イザナギと別れたイザナミが再婚した先は、大幡主ではなかったかと思うのです。大己貴(大国主)の説得に駆り出されたのも、大幡主(もしくはその一族)だったのではないでしょうか。いや、説得というのは高木大神・天之忍穂耳側の言い分であって、大幡主やその一族は、大己貴(大国主)側につくのが当然だったのです。
これまで、ずっと損な役回りを押し付けられた天つ神の端くれくらいに思っていたのですが、どうやら千家家というのは由緒正しい大幡主の家系なのかもしれません。まだまだ調べていかなければいけませんが、やっと熊野の神が見えてきた気がします。残るは、イザナミとイザナギの縁切りと速玉男との再婚を仲介した「事解男」が誰かが残ります。天穂日命についてはこれまで完全に考え違いをしていたようです……。
扁額の話で力尽きてしまってはいけません。肝心の現地を訪問した感想を書かねばなりません。
御祭神の顔ぶれに脈絡がなく驚きましたが、応神天皇を祀る神社に、明治以降に高木大神(高皇産霊神)と事代主(少彦名命)を合祀したとのことで、応神天皇を祀る八幡宮と考えてよさそうです。実質的な御祭神が応神天皇のみというのもどこか不思議な気がします。八幡大神とは応神天皇であるという感覚で、明治に届け出た際にはめ込んだだけの可能性もあるのです。
現王朝の意向で八幡神=応神天皇とされていますが、八幡神とは武神のことであって、元々は特定の誰か「だけ」を示していたわけではありません。
----------------------------------------
八幡神を応神天皇とした記述は『古事記』・『日本書紀』・『続日本紀』にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった[4]。『東大寺要録』や『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される[4]。八幡神社の祭神は応神天皇だが、上述の八幡三神を構成する比売神、神功皇后のほか、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇とともに祀っている神社も多い[4]。なお、後述にように平安時代の初期には聖武天皇の霊が没後に八幡神と結合したと信じられ、同天皇が生前に深く信仰した仏教の守護神とするために八幡大菩薩の号が生まれたとする説もある[10]。
----------------------------------------
このことに気づくと「正八幡」「生目八幡」「元八幡」といった神社名が「応神天皇だけが八幡神=武神ではない」と訴えていることが判るのです。ここも元々は応神天皇ではなく、大幡主のお宮だったのでしょうか……。
境内にあるほかの石祠や石碑を見てみることにしました。


南向きの参道と別に、集落内から社地に入るための石段があります。御神池に足場があるところをみると、元はここで手足を清められるようになっていたのでしょう。石段脇にずらりと11社、石祠と石碑が並んでいます。福岡県神社誌では6社の記載があり、これに本殿に合祀された2社を含めても、8つです。足りません。となると、戦後に集落内からここに移設されたものか、なんらかの事情で福岡県神社誌への記載を見送ったものが混じっていると考えられます。
どれがどれかもわからず途方に暮れていると、ひとつが木瓜紋なのに気づきました。
どうやら、ひとつは玉垂宮が混じっているようです。
----------------------------------------
[福岡県神社誌(抄)]中巻222頁
[社名(御祭神)]矢倉八幡宮(応神天皇、高木神、少彦名命)
[社格]村社
[住所]浮羽郡水縄村大字益生田字宮ノ前
[境内社]秋葉神社(味耜高彦根命)、高田神社(倉稲魂命)、御祖神社(高皇産霊神)、浅間神社(木花咲耶姫命)、浅間神社(磐長姫命)八千戈神社(大名持神、菅原道真)
----------------------------------------
(2020.02.23訪問)