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No.031 羽白熊鷲の終焉と寺内の美奈宜神社 | 宮原誠一の神社見聞牒
以前から自転車での訪問を狙っていたのですが、寺内ダム側の坂を登りきることが出来ずに断念していました。
地図を眺めていると、遠回りになっても秋月側からであれば傾斜が緩いことに気づきました。7.7kmで行けるところを12.2km走る遠回りコースですが、これならなんとかなりそうです。
途中2か所ほど自転車を押して登りましたが、なんとか漕ぎつきました。駐車場には、初心者マークの軽自動車が停まっていました。おそらく近所の方ではないでしょうか。
すでに先行研究があり、どれも掘り下げた内容が書かれているため、赤貧がいい加減な文章を書き散らかすのもはばかられる状況です。
とはいえ、気づいた点を書いてみたいと思います。
境内はずれに手水場があります。川で手を清めてから、お参りをするようになっています。ぐるりと見渡しながら、この神社がほぼ矢野竹地区の最低点にあることに気づきます。水の文化村や美奈宜の杜側からの道からも下り坂ですし、周囲の家が立ち並んでいるところからも下り坂です。いわば谷底にあたります。
「地理院地図」で標高図を表示してみれば一目瞭然で、大雨なのか地震なのかは原因はわかりませんが、山体崩壊で地区の中心部が押し流された形跡が残っています。1962年に国土地理院が撮影した航空写真(KU621YZ-C4-186)は、まだ寺内ダムや水の文化村が建設される以前のものですが、こちらのほうがより明瞭です。
現地の案内板には、もともと高台にあったお宮が山津波に遭い、現在の地に祀りなおしたことが「下がり宮」となった由来として書かれています。
しかし、じつのところ車道は川に沿って作られていますし、境内に車が駐車できるようになっています。おそらく地元の方の通行路でしょうが、社殿正面にも道があります。作ろうと思えば、下り坂の参道をつくらなくても、良いのです。
そう考えていくと、おそらく横の川沿いの道は、神社が建ったあとに継ぎ足されたものではないか、と思えます。水利がなければ生活を維持できませんから、集落が水辺にできるのは当然のことです。地区の中心に川があり、自然神崇拝があったのでしょう。
滝つぼの横や池のほとりに水神様の祠があるようなものです。いまでこそ小さな川ですが、もしかすると昔はもっと幅のある川や池だったかもしれません。そこに下る道の痕跡が、この石造りの参道なのでしょう。
自然神崇拝のお宮が、地域を治める支配者の移り変わりにしたがい、大幡主(埴安命)、大山祗(月読命)と祭祀を加え、神功皇后伝承が最後に伝えられたのだと考えます。
……追い詰められて滅亡した羽白熊鷹が埋葬されたと伝わる土地に、大幡主の痕跡があるというのは、ある意味重要です。
神功皇后の戦った相手を、これまで英彦山(天之忍穂耳)の系統でも阿蘇神社(健磐龍命)の系統でもない「第三の熊襲」と漠然と定義してきました。じつは大幡主、(天照大神=卑弥呼と途中から決定的に対立した)大山祗、(大山祗の子で大幡主の後継指名をうけた)大己貴が率いた勢力の残党狩りだったのではないか……。
すると、この矢野竹地区は神功皇后の野営地であったというより、羽白熊鷹側の根城のひとつだった可能性があります。ここが「神の里」だったのかもしれません。
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[福岡県神社誌(抄)]下巻412頁
[社名(御祭神)]田神社(埴安命、大山祗命、神功皇后)
[社格]無格社
[住所]朝倉郡三奈木村大字矢野竹字村上
[境内社(御祭神)]記載なし。
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(2020.01.12訪問)