松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

久留米市宮ノ陣5丁目 宮陣神社(宮ノ陣神社)


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明治になって、南朝方を顕彰するための神社が多数創建されます。
有名どころでは神戸の湊川神社などがあります。
この宮ノ陣神社も、懐良親王と良成親王を祀る神社として地元が運動し、建立された神社です。
懐良親王の終焉の地はいくつか伝承があります。現在の熊本県八代市と、福岡県八女市(旧矢部村)のほかにも複数の主張があるようです。熊本県八代市に明治17年(1884年)に八代宮が創建され、当初は矢部村に神社創建の検討をしていたらしいのですが、最終的には現在の地に建立されます。
このあたりの経緯を福岡県神社誌から拾ってみましょう。
矢部村墓所比定地は交通の便が悪く参拝が困難」、「懐良親王の征西府があった高良山は玉垂宮があるため建立が困難」なので「陣地であった三井郡合川村宮盾を選定」とあり、明治18年(1885年)に小社を建立とあります。合川村は、現在のゆめタウン久留米のある辺りですから、筑後川をはさんで対岸です。現在地ではありません。
その後、懐良親王が植えた将軍梅のある現在地に拡張移転する話が持ち上がり、明治21年(1888年)に現在地に改築移転します。
福岡県神社誌には旧宮ノ陣村で5社、村社が掲載されているのですが、無格社がまったく掲載されていません。各大字毎に強力な整理統合がなされており、少々異様な感じもします。ただ、宮ノ陣神社の設立許可に関する運動を読むと、国の神社整理政策への「忖度」が見え隠れして、おそらく駆け引きの結果だったのではないかとも思えるのです。
果たしてなぜそこまでして懐良親王にこだわったのか、いまの感覚ではピンときませんが、郡会などの上級官庁も熱心に動いたとあり、オリンピックや万博誘致のような一大イベントだったことがうかがえます。明治30年(1897年)をはじめ複数回にわたり皇族の参拝があり、明治33年(1900年)に当時の皇太子(のちの大正天皇)が参拝された記録もあり、相当な働きかけが透けてみえるのです。
将来的には県社や別格官幣社などへの昇格も狙っていたのではないでしょうか。
現地を訪問すると、将軍梅と社殿の横になかなかの空き地があります。世が世ならここに神苑を整備したりしたのかもしれません。
旧宮ノ陣村のこの神社に対する熱意は相当なものだったようで「氏子区域」欄に「信徒宮ノ陣村730戸」とあって、村全体の中心的存在であることをアピールしています。

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社殿の両脇に境内社が並んでいます。福岡県神社誌には坂本神社1社となっていますが、実際には過去に合祀した宮瀬地区にあった無格社の祠がずらりと並べられています。
大字宮瀬字中町 村社坂本神社(大山咋命
大字宮瀬字中町 日吉神社大山咋命
大字宮瀬字中町 村社天満神社(菅公)
大字宮瀬字中町 高王神社(安徳天皇
大字宮瀬字中町 秋葉神社(火産霊命)
大字宮瀬字中町 素戔嗚神社(素戔嗚命
大字宮瀬字屋敷 宝満神社(豊玉姫命
おそらく、宮瀬地区の古い祭祀について追究しようと思えば、坂本神社が鍵になりそうです。大山咋を祀るとされていますが、すでに私たちは玉垂命の皇子 坂本命の存在を知っています。ここも玉垂命の痕跡を消すため、大山咋を祀る坂本山王宮で上書きされたのでしょう。

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[福岡県神社誌(抄)]中巻176頁
[社名(御祭神)]宮陣神社(征西将軍良成親王、征西将軍懐良親王
[社格]村社
[住所]三井郡宮陣村大字宮瀬字蔵浦
[境内社(御祭神)]坂本神社(大山咋命、豊玉比咩命、菅原神、安徳天皇素戔嗚尊、火産霊命、雷命)
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(2020.01.05訪問)