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上知我麻神社 | 初えびす 七五三 お宮参り お祓い 名古屋 | 熱田神宮
上知我麻神社の両脇に、大国主社(おおくにぬししゃ・大黒様)、事代主社(ことしろぬししゃ・恵比須様)がお祀りされております。毎年1月5日はこの両社の祭「初えびす」があり、商売繁盛・家内安全を願う人々で盛大なにぎわいを見せ、正月の風物詩として知られております。
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11月10日、数か月ぶりの名古屋訪問でした。神宮前駅で名鉄特急を下車し、熱田神宮境内の上知我麻神社を訪問しました。公式ホームページを見るとわかるとおり、なぜか社殿両脇の大己貴(大国主)と事代主のことは書かれていても、御祭神 乎止與命についての記載がありません。
「日本武尊の妃の父親」と調べれば出てくるのですが、それ以上はわからない存在です。以前、現地に行って大己貴(大国主)と事代主を従えた大幡主としか思えないと書いたのですが、今回の再訪でも、やはりその結論で間違ってはいないだろうという気がしました。
成務天皇のときに尾張国造だったというのは記紀による矮小化で、伊勢から尾張を支配していた大幡主・大己貴(大国主)御一行の貴重な遺産なのです。
ここに気づくと、伊勢神宮の存在もみえてきます。自分の祖神をわざわざ遠くに追いやることは、しません。一般的な感覚だと、手元に残したがるものです。
伊勢・尾張を大幡主・玉垂命(筑紫君)がさきに支配しており、彼らをはじめ、過去の支配階級を封じ込めるための大神殿として内宮・外宮がつくられ、何よりも最初に最優先で祭祀が行われつづけてきたとみるべきなのです。
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斎院(さいいん)は、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した皇女で、伊勢神宮の斎宮と併せて斎王(斎皇女)という。斎王の御所を指すこともある。賀茂斎王、賀茂斎院とも称する。
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神宮だけでなく、大幡主や豊玉彦を祀る加茂神社にも斎院の制度がありました。過去の支配者を「祀り上げ」「封じ込める」ことにどれほど気を使っていたかが、わかります。
天之忍穂耳(英彦山)-大山咋(佐田大神)-崇神天皇(中筒男)-応神天皇(八幡大神)とつながる現皇室のほんとうの源流は、次第に見えなくなっていきます。自らがついた嘘で、歴史が書き換えられた結果なので自業自得ではあるのですが。
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その後、地下鉄で高座結御子神社に移動しました。こちらの御祭神は高倉下命とされています。
記紀では饒速日(にぎはやひ)の子とされています。饒速日とは、山幸彦 猿田彦のことです。
ただ、これも鵜呑みにはできないものと考えます。むしろ流れとしては、事代主や大己貴の関係者だとみるほうが、他の神社の状況をみるかぎり、しっくりとくるのです。おそらく高倉下命は、事代主を祖にもつ一族なのではないでしょうか。事代主の妃は大山咋の娘(崇神と姉弟)の関係にあり、いわゆる「出雲」と現王朝の接点にあたる人物だからです。
以前訪問したときは、左右に摂社を置く配置の意味がわからなかったのですが、要は前王朝の様式を真似たということなのでしょう。となると、左右の新宮社と鉾取社はスサノオではさすがにまずいということになりそうです。それにしても、謎が深いですね……。
(2019.11.10訪問)