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石柱に木瓜紋が彫り込まれ、楼門があり、その奥に社殿があります。まさに玉垂宮の配置です。楼門の土台に玉石積が残されていることも、元玉垂宮だった証拠になりうるものです。
現在は王子宮とされており、玉垂命のお子さんたちを祀る神社ということになっていますが、おそらく実態は玉垂宮だったのでしょう。
楼門の左右に石祠があり、片方は形相からして荒神としてスサノオを祀る祠に見えます。
もう片方は「若宮」であり、応神天皇と仁徳天皇を祀るとされています。これは重要なことで、本殿が最初から御祭神が御子であれば、若宮の御祭神は孫でなければなりません。仁徳天皇と本殿の御祭神のひとり斯礼賀志命を同一視する説があり、自分で自分を若宮と呼ぶはずがないため、玉垂命を抹消して、御子神社(王子宮)としたことがわかるのです。
楼門内に、地元のかたが作成したと思われる由緒書きがありました。社殿焼失後、再度、高良大社から勧請しなおした旨の記載があり、地元のかたはしっかりと(本来の御祭神である)玉垂命を意識していることがよくわかります。
灯篭に、ふるいタイプの木瓜紋が残っていました。玉垂命を祀る神社でみかけるもので、現在も濃厚に玉垂宮の祭祀が残っていることに、感激すらおぼえたのでした。
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[福岡県神社誌(抄)] 中巻206頁
[社名(御祭神)]玉垂御子神社(朝日豊盛命、暮日豊盛命、斯礼賀志命、渕上命、谿上命、那男美命、坂本命、安志奇命、安楽応寶秘命、菅原神)
[社格]村社
[住所]三井郡小郡村大字大板井字宮馬場
[境内社(御祭神)]若宮神社(応神天皇、仁徳天皇)、須佐能男神社(素戔嗚命)
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(2019.11.09訪問)