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8月に田川・京築の神社めぐりを実施した際、この神社にも縁が深いと思われる添田町津野地区の高木神社と添田町落合地区の大祖神社を訪問しました。場所は把握していたのですが、パッとみてどこに車を停めてよいのかわからず、見送った経緯がありました。
今回、少しはなれた空き地に駐車させていただき、初訪問です。
境内にはお宮が3つあります。最も大きいのが高木神社で、その正面向かって右脇が須佐神社、さらにいちばん右端に3社併せて祀られているお宮があります。
初めて見たとき、拝殿と社殿の中心がずれているのが気になりましたが、よく見ると拝殿の正面左手に物入があり、住民が拝殿として使用する板間と社殿の中心はとれています。
この神社も、福岡県神社誌に記載された御祭神を信じるなら、事代主(=少彦名命)本人かその一族が自らの母系を祀るための神社だということができます。
高木神社であっても、天之忍穂耳の姿はありません。
通説では、事代主は大己貴(大国主)の子とされています。父親がだれかを隠す必要があったからでしょう。大己貴が妃に迎えた豊玉姫(田心姫)の連れ子であった事代主と手を組むのは、ずいぶんと後のことです。
事代主は現在の春日市須玖を拠点とするまで各地を放浪しました。一時期拠点としたのが、朝倉市甘木です。なぜ「西宮」なのかといえば、追い出された英彦山からみて西にあるからにほかなりません。
しかし、こうやって母系がどうつながるかを現地で洗っていけば、通説とはまた違う、古代の政略結婚と政略離婚の嵐、事実上の乱婚関係があきらかになっていきます。そんな親同士がくっついたり離れたり忙しい御時世でも、追い出した父親への恨みは深いということでしょうか。
社殿を見回していて驚きました。笹紋は、過去にこの日記でも触れたとおり、大己貴や事代主のグループが使用した御神紋です。ただ、そのうえに五三桐があるのです。
事代主の義父が大己貴(大国主)であり、その頭領は大幡主です。大幡主は三つ盛亀甲に五三桐紋を使用されていたので、その桐紋でしょうか。考えてみれば、大幡主の子 豊玉彦も高木大神の娘を妃としたわけですから、けっして無関係な存在ではないのですが。
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[福岡県神社誌(抄)] 下巻199頁
[社名(御祭神)]高木神社(高皇産霊神、少彦名命、栲幡千千姫命)
[社格]村社
[住所]田川郡彦山村大字落合字宝流
[境内社(御祭神)]須佐神社(素戔嗚命)
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(2019.10.05訪問)