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拝殿のあまりに立派な壁画に驚きます。向かって右側の武人が弓を持っているところをみると、左側に居るのは、金鵄でしょうか。神武東征の有名な場面です。
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『日本書紀』の記述では、東征を進める彦火火出見(後の神武天皇)が長髄彦と戦っている際に、金色の霊鵄が天皇の弓に止まると、その体から発する光で長髄彦の軍兵たちの目がくらみ、東征軍が勝利することができたとされる。この霊鵄を指して「金鵄」と呼ぶ。
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むろん、いきなり初見ですので、もしかするとほかの著名な場面かもしれません。失礼ながらそれほど大きくない田舎の神社にこれほどの壁画が奉納されているとは思いもよらず、やはり各所を巡ってみるべきだと、いまさらながら痛感しました。
福岡県神社誌の御祭神でぱっと見、判りにくいのは「笥飯大神(けひおおかみ=気比大神)」でしょうか。
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『日本書紀』垂仁天皇の条には、意富加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、またの名、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)が、当地、笥飯(けひ)の浦に到着し、角鹿と名づけたとある。
都怒我阿羅斯等は、白石から生れた姫神を追って日本へ来たともあり、その姫神は、比売語曽社に祀られている。
『古事記』・応神記では、天之日矛(天日槍)が、阿加流比売という赤玉から生まれた姫を追って来たとあり、都怒我阿羅斯等は、天日槍と同一視されている
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気比大神は誰か。この点についてはお読みのとおり、先行研究が簡潔にまとめておられますのでそちらをご参照ください。
要は、天日槍と都怒我阿羅斯等を同一とみるか、そうでないかで解釈がわかれます。
そしてもうひとり判りにくい「聖母大神」は、神功皇后です。
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父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は渡来人の新羅王子天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高ヌカ媛。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫がいる。
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記紀で神功皇后は天日槍の子孫とされています。
記紀は、日本の歴史を古く見せるための偽装として、系譜の水増しを行っています。そもそも高良玉垂宮神秘書で、玉垂命と神功皇后は夫婦とあるのですから、世代が同じかずれても十数歳くらいなのはあきらかです。
赤貧は、天日槍はスサノオの別名であると考えています。
もし気比大神=天日槍=都怒我阿羅斯等を同一とした場合、神功皇后の伝承を考えると、世代がおかしくなってしまいますから、別人のはずなのです。気比大神は北陸方面を征圧した神である点を考えると、おそらくは崇神天皇の別名ではないか、と考えます。
崇神天皇が四道将軍を派遣して日本征圧を実行したことは、すでに過去の日記でも触れています。
北陸方面に派遣されたのは大彦命であり、北陸方面との結びつきについては、柳川市大和町鷹ノ尾の印鑰神社を訪問したときに、書いたとおりです。
高良玉垂宮神秘書では、崇神天皇は住吉三神のうち中筒男とされていますから、この神社でいう住吉大明神とは、玉垂命か安曇磯良のいずれかを指すと考えられます。おそらくは玉垂命でしょう。
つまり、この五社神社は、朝倉市荷原の美奈宜神社や、筑前町砥上の砥上神社と同類型の、羽白熊鷹征伐に関する神社と考えられるのです。
と、ここまで考えてから石段を下りると、筑前町が設置した案内板がありました。
ここでは「笥飯大神」が「応神天皇」となっています。なにがあったのでしょう?
24日、仕事を急いで終えて図書館で「筑前町史」と「夜須町誌」を確認しました。
まったくもって驚くべきことなのですが、この地域の伝承では、聖母大神とは神功皇后であり、かつ、宝満宮のことだとされているのです。つまり、この地域の人々は、玉依姫(別名、湍津姫)ではなく、神功皇后こそが宝満宮の御祭神だとしているわけです。
そして笥飯大神は「ほこおおかみ」と呼ばれており、八幡大神のことであるとしています。住吉三神のひとり崇神天皇(とその息子 応神天皇)こそ、八幡大神だとするわけです。
一般的な解釈としては、応神天皇は足仲彦(仲哀天皇)と神功皇后の子であるとされます。実際のところ、腹に石を巻いて冷やしたら十月十日よりも出産を遅らせられるとは考えませんから、本当の親はだれなのか、謎とされてきました。
高良玉垂宮神秘書で、玉垂命と神功皇后が夫婦であるとされているため、気づきにくかったのですが、崇神天皇とたぶんその子供である応神天皇が八幡大神であるとするなら、ずいぶんと見方をかえる必要があります。
赤貧は現地だけをみて羽白熊鷹伝承のなかで考えることができる神社と早合点していましたが、とんでもない。八幡大神とは誰か、それをあらためて考えるきっかけを提供してくれる、すごい神社でした。
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[福岡県神社誌(抄)] 中巻18頁
[社名(御祭神)]五社神社(天照大神、住吉大神、笥飯大神、春日大神、聖母大神)
[社格]村社
[住所]朝倉郡夜須村大字赤坂字熊本
[境内社(御祭神)]須賀社
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(2019.09.23訪問)