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福岡県神社誌には竈門神社と記載されていますが、鳥居の扁額には、宝満宮とありました。御祭神は玉依姫で、神功皇后の三韓征伐のとき、父 豊玉彦に満珠・干珠を借受にいった神様です。
社殿のあらゆるところがすすけており、火事に遭ったことがあるのかもしれません。
玉依姫と名乗る神様は複数世代に居ることと、わざと後代に互いの存在をぼかしてしまった経緯があるため、わかりにくい存在になっています。早い話、神武天皇の母君にあやかって同じ名前がつけられ、のちに自らの出世のため系図を偽装した連中が、その母親の名前が一緒なのを良いことに、しっかりと粉飾しまくってくれたからなのですが。
この栄田の宝満宮の場合、福岡県神社誌では安永6年(1777年)に勧請されたとあります。境内を写真を撮りながらうろつく赤貧を賽銭泥棒と思って近づいてこられた第一村人の話では、「もっと昔からあったと聞いている」とのことで、竈門神社に衣替えしたのが安永6年の可能性もあります。
ただ、竈門神社としっかりと銘打っている以上、祀られている玉依姫が誰なのか、見当がつきます。ここに居るのは、宝満山の竈門神社同様、崇神天皇の母 湍津姫です。大幡主を祖父に持ち、崇神天皇の母である湍津姫を神武天皇の母 玉依姫とわざとごっちゃにして祀っています。
今年の6月の時点では、何故、八幡宮と宝満宮の祭神がかぶることがありうるのか、いまいちわかっていませんでした。思い込みと刷り込みから、赤貧自身が自由になっていなかったのです。
いまになってみると、竈門神社の玉依姫は、神武東征の成功を祈願したのではなく、崇神天皇の四道将軍派遣の成功を宝満山で祈願したのではないかと考えるのがつじつまがあう気がします。崇神天皇の子息 応神天皇が宇佐神宮に祀られるさい、偉大な祖母として湍津姫は比売大神として祀りなおされ、やがて共通の祖父 大幡主 の縁で、宗像三女神としてセットとしてみなされるようになっていきます。むろん、大己貴を共通の旦那として持っていた点もあるのでしょうが……(ほんと大昔は乱婚ですね。いやになります)。
社殿をよくみると、菊紋が打たれていました。さすがに目視で16菊紋かどうかまではわかりませんでしたが、この神社が勧請された時点では、このあたりの背景を知っているひとが居たのでしょう。だから、菊紋なのだと思います。
(2019.09.07訪問)