美風庵だより

幻の花 散りぬ一輪 冬日の中

北九州市小倉南区蒲生 蒲生八幡神社


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県内屈指の氏子区域を誇る神社です。
小倉北区(室町1-3丁目、魚町、京町、堺町、鍛冶町、米町、船頭町、紺屋町、船場町、浅野、長浜、末広、藍島、南丘)小倉南区(蒲生、南方、高野、徳力、守恒、石田、企救丘、山手、星和台、日の出町、長尾1・2丁目、葉山町、北方)とされていますから、小倉北区から小倉南区まで、30万人はくだらない地域をかかえていることになります。

名前は知っていたのですが、8月18日、はじめて訪問しました。
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蒲生八幡神社 (北九州市) - Wikipedia

往昔、蒲生村虹山(巣山)の峯に多紀理比売命・多岐都比売命市寸島比売命の三神が天降り、「我、永く此地を守らん」と告げる。そこで、里人は紫の池の辺に多紀理比売命を祀り、虹山の山頂に多岐都比売命を祀り(蒲生宮)、紫の池の北に市寸島比売命を祀った。後に、蒲生宮に応神天皇神功皇后を祀り、蒲生八幡宮とした。
(略)
天正のはじめに、大友宗麟の兵火に罹り、神社焼失。このことを憂いた、岩松弥兵衛(三郎兵衛)は高浜(現在の井筒屋付近)に神社を造立し、社号を規矩(企救)八幡宮(高浜八幡宮)とした。小倉城主・高橋鑑種が社殿造営し、鳥居を建立する。天正年間、小倉城主・毛利成儀(勝信)からも篤い崇敬を受ける。慶長7年、小倉城築城に伴い、細川忠興は神社が鎮座する高浜を東曲輪とするために規矩八幡宮をもとの蒲生の地(中島山)に遷し、社号を再び蒲生八幡宮とした。寛永9年に入国した小笠原藩からも篤い崇敬を受け、社殿造営等がなされた。
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長々とwikipediaを引用しましたが、重要な点は、まず最初にあったのは宗像三女神を祀るお宮だったということです。

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境内の案内板にあった古い時代の絵図ですが、これがいちばん社殿の配置がよくわかります。

一段高いところに幸彦社があり、本殿の両脇に、白山社、貴舟社、稲荷社があります。
現在、幸彦社の御祭神は、柿本人麻呂と西田直養とされています。西田直養は小倉藩士だった国学者です。学問の神様とされているのですが、一段高く社殿を見下ろせる位置にあるのも不思議です。

白山社の祭神について福岡県神社誌に記載はありませんが、一般的に考えるとまずは菊理姫(=天之御中主)だろうと推測できます。貴舟社は罔象女神(ミズハノメ)であり、稲荷社は豊受姫(ウカノミタマ、稲魂命、天細女、オオミヤノメ)です。
彼女たちの存在に、本殿に宗像族が奉斎する市杵嶋姫、宇佐出身の湍津姫、筑後(現在久留米市北野町の一部になっている大城村)出身の田心姫(=道主貴)が祀られていることを考えあわせると、おそらく幸彦社のほんらいの祭神は、大国主(大己貴)だったのだろうと思えてくるのです。

八幡宮で上書きされるまえは、宇佐族の拠点だったのでしょう。そして、大国主を祀る神社となり、さらに、八幡宮に上書きされたのです。

何度も遷座し、建て替えられた社殿からは過去の記憶を読み取ることは困難ですが、どうも境内の案内板や福岡県神社誌、wikipediaなどを読んでいると、そんな感じがしてくるのです。

(2019.08.18訪問)