大きい地図・ルート検索 ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
綱場町の「チョコレートショップ」本店の並びに鳥居があるのは気づいていましたが、初めて訪問しました。
菅公が左遷された際、住民たちは船の綱で敷物をつくり出迎えました。その後、出迎えたところに天神様が建ち、「綱輪」天神がなまって「綱場」になったという伝承があります。
菅公の上陸地がどこであったか、複数説あります。
菅原道真公の太宰府までの旅程の推定航路 | 日本の歴史と日本人のルーツ
神社伝承をあまり考えず妥当な経路を考証した記事があります。ときどきこの方のサイトは参考にさせていただいています。
それにしても、綱敷天満宮のなんと多いことか。綱を敷いた伝承をもって各地に移住したひとが居るのではないかとすら思うほどです。
ただ、神社伝承を拾うと、筑後川ルートという、もう一本の経路もみえてくるのです。どちらが正しいかというより、赤貧はどちらも正解だったのだと考えています。追っ手からカッパが助けてくれた伝承もあるくらい、暗殺の危険性はつねにあったわけですから、煙に巻くための替え玉も準備されていたでしょう。
そもそも、現代のようにSNSもブログもインターネットもあるわけじゃなし、写真すらない時代です。顔は似顔絵くらいしかないわけで、替え玉は、現代よりもはるかに簡単に準備できたはずです。
しかし、赤貧がいまだによくわからないのは、菅公は天皇でも将軍でもないのに、なぜここまで一挙手一投足、伝承になるのかという点です。
(2019.08.25訪問)