松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

京都郡苅田町新津 大原八幡神社


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f:id:bifum:20190817101010j:plain福岡県神社誌を検索すると、有名神社と同じ名前のお宮をみかけることがあります。たいていはそこの神社からの勧請とされているわけですが、ふと「大原八幡宮」が目に留まりました。この京都郡苅田町と、みやこ町に1社ずつ存在しています。

たしかに日田市の大原八幡宮は有名な神社ではあるものの、分社が出来るほど有名か?としょうじき思いました。

なにはともあれ、訪問してみることにしました。

当日、初宮参りと思われるご家族がお参りされて記念撮影の真っ最中であり、神社の方もつきっきりでしたので質問などは出来ませんでした。狭い社地ながらゆったりと明るい雰囲気があり、なかなかよい感じがします。ただ、境内整備の真っ最中なのか、社務所が真新しいため他から少々浮いていたり、境内にある貴船神社の石段が仮設になっていたりと、手狭な土地をやりくりしている真っ最中という感じもしました。
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苅田|大原八幡神社|御祭神と御由緒
大原八幡神社の御祭神は、
大原足尼命 現在の豊前・豊後の国造
饒速日命 大原足尼命の祖先・物部氏の祖神
応神天皇 第十五代天皇・八幡の大神
仲哀天皇十四代天皇応神天皇の父君
神功皇后 応神天皇の母君
五柱の神であらせられ、この豊前、豊後の国の祖神であり、私共の繁栄を守護し給う大神として、人々に普く崇敬するところであります。
大原八幡神社の創建については、御祭神大原足尼命が神功皇后の御代(西暦二〇九年ごろ)豊前、豊後の国造として、民を安じ徳望あり、とくにこのころ新津に港を造り公私船舶往還の港となり大いに栄える。
命が亡くなれると住民は、この徳を慕い大字新津字祖父墓の地に命の塚を造り祭る。
其後六世紀後半(西暦五七〇年ごろ)この京都地方を治めていた物部氏が祖先を同じとする命を、港の正面に恩塚山に大いなる塚(廟所)を造り氏神として祭る。
その後、饒速日命応神天皇仲哀天皇神功皇后を御観請し現在に至る。
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福岡県神社誌よりも公式ホームページのほうがわかりやすいため、そのまま引用してみました。

本家の大原八幡宮の現在の由緒書きにはない、すごいことが書かれています。

大原足尼命(おおはらのすくねのみこと)の御先祖は山幸彦(=ニギハヤヒ=香取神=五十猛命猿田彦)であり、物部氏の祖だと書かれているのです。この系譜は、崇神王朝(現皇室)に乗っ取られた筑紫君(九州王朝)の有力者の系譜です。

高良大社の「玉垂宮神秘書」に「先祖が物部氏であることは秘すこと、バレたら山は滅亡させられる」といった内容があります。

旧支配層の有力者が祀られていることを高良大社では必死になって隠し、なんとか現代まで続いてきたわけですが、さすがにこのクラスの神社までは、政府の目(それは現皇室の目でもあるのですが)は行き届かなかったようです。

筑紫君(九州王朝)の系譜を受け継ぐ神社であることの証は、剣花菱の御神紋にあらわれています。本家の大原八幡宮では、五七桐紋、三つ巴紋、剣州浜紋を並べて暗示する道をえらんでいるのに対して、ここでは堂々と掲げています。

玉垂宮の威光をがここまで及んでいたことに感動すら覚えたのですが、なぜ大原八幡宮なのかも、ここに併せて回答がある気がしました。

福岡県神社誌では、まず大原足尼命を祀る神社があり、応神天皇ほかを大分県日田市の大原八幡宮から勧請したとあります。日田の大原八幡宮が生き残りのため祭神を加えたときに、おそらくあわせてこの神社でも応神天皇以下が祀られ「八幡宮」に衣替えしたのでしょう。このご縁が在るということは、大原八幡宮は分社が許されるくらい地位のある玉垂宮であったと考えられられるのです。現在の高良大社は、木瓜紋をもちいています。花菱紋に一手間加えることで、現皇室にはばかってみせているわけです。ところが、この大原八幡神社では、花菱に剣を加えてより武を強調し、雲の裂け目から光とともに下りてきた玉垂命の性格すら強調しています。

しかし、ここまでくると、なぜ宇佐神宮から潰されなかったのかとも思えてきます。表向き八幡宮に衣替えしたことで目を盗んだということも考えられるし、社格的に目立たなかったということも考えられます。地域の信仰が崇神王朝への反抗を支えたという面もありえるでしょう。

新津という地名はむかし、荒津とも呼ばれていたそうで、港があったとのこと。筑紫君(九州王朝)の瀬戸内海に面した拠点に、玉垂宮が存在した意味は大きいものがあります。

(2019.08.17訪問)