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旧郷社 千手八幡宮を訪問しました。
福岡県神社誌によれば、御祭神は神功皇后、応神天皇、玉依姫とあります。延長3年の勧請と記録が残っており、926年に建立されたようです。現在の社殿は慶応2年(1865年)の再建らしく、当時の千手村がいかに繁栄していたかがよくわかる立派なものです。



弘化4年(1847年)の絵馬もあり、どれも立派なものばかりです。これまでに150以上の神社を訪問しましたが、このくらい立派なものはたまにしかみかけません。貴重な財産です。
石段の途中に「恵」と彫られた石祠がありました。嘉麻市でも旧千手村・旧足白村にかけて、祠に御神紋を打たず、神様の名前の一部を彫りこむ傾向があります。それがずっとなのか、ある時期だけなのかはわかりませんが。恵とあるからには恵比須(えびす)さまではないか、となんとなく想像もするのですが、もしかすると違うかもしれません。



本殿の後ろに、摂社・末社が3つのお宮にまとめられています。拝殿から神様をおがむと、自然と摂社・末社も参拝したことになるように配置されています。中央の7社がまとめられたお宮は、うまく全景を撮れる位置を見つけることができませんでしたので、中のようすだけ撮影しました。
向かって左手のお宮には、天満神社(菅公)、須佐神社(スサノオ)、神明社(天照大神)がまとめられています。
中央のお宮は、若宮神社、福知神社、福部神社、五穀神社、天神社、大山祇神社、稲荷神社の7社が並んでいます。
持参した福岡県神社誌を見返すと、五穀神社(保食命、埴安姫命、倉稲魂命、大国主命、秋月種実息女霊、大己貴命、大山祇命)と記載されており、御祭神が7柱あることになっています。この両者は対応すると考えるべきです。
稲荷神社と五穀神社は、倉稲魂命=保食命(=豊受姫)で間違いないでしょう。
大山祇神社も大山祗で良いはずです(当然)。
天神社は大幡主(タノカンサー)の妹で大山祗の妻 埴安姫命が御祭神でしょう。
すると残るは若宮神社、福知神社、福部神社で、御祭神側も秋月種実息女霊、大国主命、大己貴命の3柱となります。
八幡宮で若宮と言えば、まず疑うのは仁徳天皇なのですが、ここでは秋月種実息女霊ということになるのでしょうか。
福知神社については、福智山を指すと考えられ、大己貴がお祀りされている神社がありますから、おそらくこれで間違いないでしょう。
残るは福部神社ですが、さすがに考え込んでしまいました。現在の筑後市に在る福部神社は、菅公の奥さんと奥さんの父親を祀っています。目の前のお宮と筑後のお宮の出自が同じなら、元々は福部(ふくべ=ひょうたん)神社は、大国主を祀っていたのが菅公の関係者で上書きされたとも考えないといけなくなります。
向かって右端のお宮には、匠神社と遥拝所があります。福岡県神社誌では一近神社と書かれていますが、現地で実見するとどう見ても「匠」です。
御祭神は手置帆負命と彦狭知命とされています。太玉命(ふとだまのみこと=豊玉彦=ヤタガラス)の5人の配下のうちの2人であり、ともに建築の専門技術者であり、盾や矛といった武器の技術者でもあります。配下が立派なお宮に祀られているのに、その親分は居ません。……隣がなぜ「遥拝所」なのか。ぞっとしました。
一般的には遥拝所は、神宮の遥拝所だと考えられています。おそらく、この祭祀を執り行っているひとたちも、そう考えているでしょう。ところが隣に配下の立派なお宮があって、一段高いところに遥拝所があれば、親分である豊玉彦=豊国主=ヤタガラスを拝む場所と考えるほうが、すっきりします。
ヤタガラスは簡単に言えば、大幡主の子で田心姫(道主貴)の親であり、崇神天皇と安曇磯良の祖父にあたる大スターです。けっしてサッカー日本代表の3本足のカラスというだけではありません。
そうなると、926年に八幡宮として創建されたというのも疑わしくなってきます。元々は、大幡主といっしょに熊野神社として祀られていたか、お子さん達と一緒に祀る賀茂神社であった可能性もあるでしょう。


明治29年(1896年)生まれの曲芸をする狛犬さんが目をひきます。御祭神の謎とかいろいろと考えず、近所のかたは狛犬さんを眺めに来るだけでもよいかと思います。
(2019.08.12訪問)