松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

北九州市門司区門司 和布刈神社


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まず、神社の公式ホームページから引用します。
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めかり神社とは
【由緒】
和布刈神社は、九州の最北端に鎮座する神社で、関門海峡に面して社殿が立つ。社伝によると仲哀天皇九年(200年頃)神功皇后三韓より御凱旋され、御報賽の思召をもって御創建された。古くは「速戸社」や「隼人明神」「早鞆明神」と称され、文化6年(1809年)に和布刈神社となり、足利尊氏大内義隆などにより社殿が建造されたといわれる。江戸時代に、細川忠興豊前の大名として入国すると、和布刈神社など五社を祈願所として定めた。その後、小倉藩主となった小笠原氏からの崇拝も篤かった。
本殿は、三間社流造の銅板葺で、明和四年 (1767年)小倉藩四代藩主の小笠原忠総により健立された。
拝殿は明治中期頃の建造で、装飾が多く、屋根に千鳥破風や唐破風を設けた賑やかな造りとなっている。
境内には細川忠興、小笠原氏が寄進した石灯籠などが、航海の無事を守るように立っている。

【御神宝】満珠|干珠(まんじゅ・かんじゅ)
古事記より海幸山幸の神話、昔ホホデミが海中の龍宮城を訪れ、ワタツミの娘の豊玉姫を妻に迎え、また潮満・潮干の宝珠を授かり、それを子孫に伝え、万世途絶えることなき繁栄が続いたと伝えられ、又、神功皇后三韓を攻めるにあたって従者の安曇磯良を海中に遣わし、潮涸珠潮満珠の法を授かり、めでたく新羅侵略を成功に導いたとされた。
皇后の考えで和布刈の北の海上一里の所にある奥津島辺津島(今の満珠干珠島)に納め、当社にも金銀白銀で包んだ満珠干珠のしるしが納められている。

【御祭神】
比賣大神
日子穂々出見命
鵜草葺不合命
豊玉比賣命
安曇磯良神
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【手抜き】という側面もあるのですが、背景を知るには短くまとまっていると感じたので、公式ホームページから大々的に引用しました。
まず、ヒコホホデミとは山幸彦(猿田彦とも言います。)のことです。竜宮に行き、豊玉彦(=ヤタガラス)の娘 豊玉姫(別名、田心姫とも道主貴とも言います)を妃に迎え入れます。豊玉彦の親父 大幡主の支援のもと、山幸彦は海幸彦(アメノオシホミミ=天忍穗耳)に勝利します。
豊玉姫の子が玉依姫宗像三女神とセットで呼ばれるときは、湍津姫と呼ばれます)で、安曇磯良の母です。
この玉依姫が、父親である豊玉彦のところに満珠・干珠を借りに行き、玉垂命(このときは藤大臣と名乗っていました)がこれを使いこなして、三韓征伐で勝利をおさめるのです。
鵜草葺不合命は、玉依姫のダンナであり、安曇磯良の父にあたります。
……と、玉垂宮神秘書などを参照して書き直すと、こんな話になります。

http://snk.or.jp/cda/ohokisi/furoku/4toyohime.html

一見関係なさそうな「比賣大神」は、宇佐宮や宗像大社の御祭神である宗像三女神(湍津姫、田心姫、市杵島姫)とされています。この3人のうち、玉垂命こと筑紫君が奉斎した田心姫は道主貴であり、豊玉姫です。
宗像族が奉斎したのは、市杵島姫でした。宗像三女神と俗称されるためそれにひきずられて誤読しかねませんが、実際の主役は、玉依姫こと湍津姫と、豊玉姫こと田心姫なのです。
 
社殿には大きく御神紋として桜紋が掲げられています。
桜紋を使う神様が御祭神のなかから想像もできなかったのですが、細川の殿様が崇敬していたという話を聞いて、桜紋の出どころはおそらく細川家だろうと考えるようになりました。
 
対岸の下関側から見える位置にあり、そのうち訪問してみたいとは思っていたのですが、実際に来てみると、たしかに海戦の前線基地となってもおかしくない場所だと感じました。

www.mekarijinja.com立ち去ろうとしたところ、社務所には「海洋散骨」といったポスターが並んでいました。公式ホームページにもあるとおり、散骨を行っているようです。
赤貧も将来墓に入ろうとは考えていませんし、こういうのもありかな……とふと感じました。
初盆参りの帰りで時間がなくバタバタしてしまいましたが、いずれ再訪して、ゆっくりと眺めてみたいと思いました。
(2019.08.11訪問)