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過去に何度か訪問した久留米市北野町の北野天満宮も、「神社めぐり」シリーズでは初登場です。この神社の由来については福岡県神社誌の抜粋を読んでいただくとして、上宮については元は玉垂宮や八幡宮であったと赤貧はみています。
御祭神に、菅公のほか武内宿禰(=玉垂命=筑紫君)と住吉大神(安曇磯良、崇神天皇、玉垂命=武内宿禰=筑紫君)が祀られており、八幡大神と菅公が入れ替わったかたちとなっています。急に北野天満宮の荘園となってから創建されたのではなく、もともとここに玉垂宮があり、やがて八幡宮に衣替えしてから、再度、八幡大神と菅公を入れ替えたのでしょう。
赤貧が訪れた7月27日、おそらく茅の輪飾りの準備のため境内を手入れしている最中でした。まだ9時半だというのに、すっかり陽がのぼって汗がしたたります。
京都の北野天満宮の創建が947年とされていますから、1054年に北野天満宮に衣替えしたとすれば、相当はやい時期に成立したといえます。
ただ、赤貧がひっかかるのは河童と菅公の伝説で、河童が菅公を追っ手から助ける際、腕を切り落とされたというものです。その河童の手は、現在も北野天満宮の宝物として保管されています。
なぜ河童なの!?|くるめのみりょく|久留米シティプロモーション
さきに縁があった故地は久留米の北野ではないかと考えるのです。故地だからこそ、京都の荘園とされ、正式に北野天満宮で上書きされたのではないか。
京都・北野天満宮は、御神紋に梅鉢紋と三階松をもちいます。
すでに宮地嶽神社について触れたとき、三階松が筑紫君の紋章のひとつだという話は書きました。菅公以外は、京都では消されたと考えてよいでしょう。
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境内のお手入れの真っ最中だったせいか、神輿庫が開いており、なかの神輿を鑑賞することができました。梅鉢紋といっしょに住吉大神(三つ巴紋)と玉垂命=筑紫君(花菱紋)の紋が打たれているのを確認することができます。京都で花菱ではなく三階松の紋章を持ち出したのは、菅公がいくら立派なひとであったとしても、天皇の紋章とすぐ気づくものと並べるわけにはいかなかったのでしょう。
本殿の向かって左側に、ほかの摂社・末社よりひとまわり大きいお宮が鎮座しています。玉石の基礎をみると、もしかするとこれがほんらいの玉垂宮だったのではないかと思えるのですが、確証はありません。再訪した折、関係者のかたに質問してみたいと思います。
上宮から、北野の町を眺めます。この道が一直線に伸び、つきあたりに下宮があります。この町は、東西の両側から、天満宮の御加護をうけているのです。
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下宮は電車でひと駅あります。
東西約1.6kmの街道は、11世紀の幹線道路の一部だったという話を聞いたことがあります。いまも神輿に御神体の鏡をのせて、上宮から下宮まで御神幸行列が行われるそうで、いずれ実見してみたいと思います。
(2019.07.27訪問)