美風庵だより

幻の花 散りぬ一輪 冬日の中

宗像市田島 宗像大社


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7月13日から15日にかけて山笠でした。赤貧もいちおう町内会の役員のため参加しました。昨年はカンカン照りで体調が悪くなったので、念のため、16日に夏季休暇を1日消化しました。

休みすぎですね(てへ)。仕事してないのがバレバレです。
 
家でじっとしておこうと思ったのですが、14日、合間をぬって弁財天社を探す旅に出てしまった影響もあり、ふと、宗像大社に行こうと思い立ちました。
 
まず、いろいろ言うまえに宗像三女神とはなにかを「大城村郷土読本」の「豊姫縁起」から引用してみます。もとは北野町にある赤司八幡宮に伝わる資料ですが、ネットで原文が読めるサイトを見つけきれないため、比較的まとまっているこの本を引用することにします。
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http://snk.or.jp/cda/ohokisi/furoku/4toyohime.html

(略)
姫神社の起源は天照大神の神勅によって宇佐・宗像・道中の三ヶ所に降られた三女神のうちの道之中というのはここである。「汝三神宣降居道中奉助天孫而為天孫所祭也」(神代巻)とある道中は河北荘道中である。「今在海 北道中號白道主貴此筑紫水沼君等祭神也」(神代巻)とあるが「海北」とあるのは「河北」の書誤りである。
(略)
赤司大宮司も水沼君の末裔として今日に至るまで懈怠なく神に仕え
(略)
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古事記日本書紀にもとづく通説では、天照大神のお子さん3姉妹(長女:湍津姫:たぎつひめ、次女:田心姫:たごりひめ、末っ子:市杵島姫:いちきしまひめ)とされているわけですが、記紀をはなれて神社の伝承をひろうと、違う姿が見えてきます。

(1)宗像三女神とひとくくりにされているけれども、3人は、宇佐・宗像・北野(大城)と出身がそれぞれ異なる。つまり3姉妹ではない。

(2)田心姫を道主貴(みちぬしのむち)と崇敬したのは筑紫君(水沼君=玉垂命)の一族である。

上記のHPにはありませんが、市杵島姫を崇敬したのは宗像族であり、湍津姫を崇敬したのは宇佐族という一文もあります。

この3人の接点はなにか。

それぞれに、大己貴の妃であった伝承があります。

ただ、市杵島姫はニギハヤヒ、つまり猿田彦=山幸彦の妃であったという伝承もありますから、全部を真に受けると、乱婚?状態でアタマが混乱してくるのも事実ですが……。

おそらく、高崎山のサルではないけれど、その時々のリーダー・副リーダーが支配する構造だったのではないか、という気がします。女の側も、先の見えない落ちぶれについていくより、経済的に有利な相手に囲ってもらったほうがいいはずです。

現代でもモテる男・権力者・金持ちが総取りしますから、似たようなものですが。

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宗像大社に行くのは久しぶりだったのですが、朝鮮語、中国語、東南アジア系の言語が飛び交う空間に圧倒されます。この中に日本人ってもしかすると1割くらいなんじゃないか、という気すらしてきます。

神宮くらいでしか見た記憶がない、拝殿前に正座して熱心に祝詞をとなえるかたがおられました。もう何年も前でしたが、或る著名霊能者が「九州のひとは伊勢神宮まで行かなくても宗像で同じ御加護が得られる」といった発言を繰り返ししていたことがあります。あれでどうもオカルト系の信者が増えたとは聞いていましたが、実際に目の前にしてみると、ヒキます。朝鮮語で雑談しながら拝殿前で記念撮影している御一行が、日本にも五体投地の習俗があると勘違いしたりしないだろうかと思いつつ、拝殿をあとにします。

社殿のまわりに、ぐるりと各地にある末社がお祀りされており、案内板によれば120以上あるとのこと。いかに影響力のある神社であったか、よくわかります。

ふと気がついて足を向けると、末社でぐるりと取り囲まれた外に、松尾神社蛭子神社がありました。蛭子神社については、扁額を削って字を彫りなおしたようにも見えます。松尾神社は、大山咋(大物主)を祀る神社です。京都の松尾大社は、事代主から大物主が酒造りについての伝授をうけた言い伝えがあって、酒造家が醸造の神様として崇敬していることで有名です。蛭子神社は恵比須さま=事代主=スクナヒコナを祀る神社です。

大物主は市杵島姫の子であり、事代主は田心姫の子ですが、それぞれ父親は大己貴ではありません。しかし、右腕として信頼し重用されました。湍津姫の連れ子で、のちに皇室と喧嘩する建御名方(たけみなかた)も引き取ったのですから、大己貴にはそうとうな度量があったはずです。のちに大国主と称されるのも、わかります。

逆に言えば、妻妾だけを祀る神社で子供がこのような配置になるかと考えてみれば誰でも不思議に思うでしょう。やはりここには一族の長である大己貴(=大国主)が居て、その妃と配下と子供が祀られていると考えるほうが、自然です。

以前、筑前町弥永の大己貴神社について書いたとき「おんがさま」と地元で呼称されていることを書きましたし、「大神=おおがみ=おんがさま」となまったのではないかと考えられていることも、紹介しました。

こうやって宗像大社が実際は大己貴(=大国主)の神社であると考えれば、「遠賀さま」でもあった可能性は、あると思います。

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以前から指摘されていることですが、宗像大社の本殿は男千木がのっています。

 

社殿の裏には、沖津宮中津宮分祀があります。記紀を意識してか、構造がまるで神宮の別宮のようです。こちらはちゃんと女千木になっています。

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高宮跡は、神様が降り立った場所とされています。可能性は2つあって、ひとつは宗像族が崇敬した市杵島姫の出身地である可能性と、もとは大己貴(=大国主)を祀る祭場であった可能性です。原始的な祭祀の姿を残すと宗像大社側は説明していますが、造りとしては、拝殿→幣殿→本殿とせりあがった神社の跡地のようでもあります。

(2019.07.16訪問)