宮地嶽神社の横に熊鷹稲荷神社があります。鳥居にしっかりと「熊鷹」の文字があります。社伝では、伏見稲荷の熊鷹社からの勧請と伝えられているそうですが、赤貧のような朝倉市郡に住む者からみれば「羽白熊鷲」の伝説をすぐに思い出してしまいます。
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(原文)
且荷持田村荷持、此云能登利有羽白熊鷲者、其爲人強健、亦身有翼、能飛以高翔、是以、不從皇命。毎略盜人民。
戊子、皇后、欲撃熊鷲而自橿日宮遷于松峽宮。時、飄風忽起、御笠墮風、故時人號其處曰御笠也。辛卯、至層増岐野、即舉兵撃羽白熊鷲而滅之。謂左右曰「取得熊鷲、我心則安。」故號其處曰安也。
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(怪しい意訳)
また、野鳥田村に、羽白熊鷲という者がいました。その者は強健で翼を持ち、高く飛ぶことができました。それゆえ、天皇の命令に従わず、人民からいつも略奪ばかりしていました。
戊子(つちのえね)の年、神功皇后は香椎宮を出て、熊鷲を征伐するため松峡宮(まつおぐう)に移りました。つむじ風がおこり、皇后の笠が落ちました。それで、この場所を御笠と言うようになりました。辛卯の日、ソゾキノ(?)に至り、即挙兵して羽白熊鷲を滅ぼしました。皇后が左右の者に「熊鷲を討ち取り、心安らかになりました」と言ったので、この地は夜須と名付けられました。
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ちなみに、赤貧がむかし習った話は、嘉麻市大隈にある大熊山(益富山)まで逃げ、そこで討ち取られたので大熊転じて「大隈」になったというものでした。もしかすると間違っているかもしれませんが、大隈という地名のおこりとして習った気がします。
当時、まさかこんな日本書紀に載っているような大豪族の反乱などと、まったく思ってもみませんでしたが……。
いまになって考えてみると、熊本はもともと隈本だったように、地名に「~隈」とあったら、まずは熊襲の集落ではないかと考えるのが妥当な気がしています。それにしても気になるのは、羽白熊鷹(たか)だとずっと思っていたのですが、日本書紀やこの件についての資料などはことごとく「鷲(わし)」になっている点です。
阿蘇神社や英彦山をはじめ鷹の羽紋を御神紋とする熊襲本流に配慮して、反乱軍を鷲(わし)と書き換えたのかもしれない、と赤貧は思っています。
熊襲はあくまでも出自が「球磨・曽於」であって、彼らの軍勢は行ける範囲どこでも遠征していました。赤貧が思うに、三韓征伐を企図しているのが漏れ、朝鮮からのかく乱に呼応した一部が蜂起したのではないでしょうか。それだけ皇室側の体制がぜい弱であったと考えるほうが、よいかもしれません。
そもそも、阿蘇津彦と玉垂命(武内宿禰)の熊襲+筑紫君連合軍が三韓征伐の主力だったことを思えば、長府で熊襲?という点も了解できると思います。
日本書紀に載るくらいの大規模な反乱(一揆)だったのでしょうが、鎮圧されてほとんど過去は残っていません。
それでもなぜ、熊鷹社が伏見稲荷にあるのかは、謎のままです。
いずれ伏見稲荷を再訪して、じっくりと考えてみなければなりません。
海の向こうは九州で、ここから二度と反乱を起こさぬよう、一揆が起きぬよう、監視するためにもともと作られた玉垂宮だったのでしょう。
それが、宇佐宮から石清水に向かう仮宮となり、やがて、八幡宮に上書きされていったのだと思います。
(2019.06.23訪問)