事前に調べた情報では、五七桐紋とありました。
桐紋なら、なにか九州王朝と関係がありそうです。
名鉄電車で豊川稲荷駅から国府駅に移動します。googleマップを参考にして歩いて行くと神社らしき建物があり、たまたまキャッチボールをしていた小学生に尋ねると、ここではないと言われました。指さす方向に歩くとまた違う神社が見えたのですが、こんどはどこから入るのかがわかりません。まさか私有地を横切るわけにもいかないのでうろうろしていたら、なんとか入り口を見つけました。
あとで、国府駅まで戻るときに気づいたのですが、最初に右折と左折を間違えていなければ、5分かからない距離にありました。それをぐるりと遠回りしてしまったようです。
尾張・国府宮神社のなかなか立派な姿と違い、ずいぶんと古びた印象です。
すでに砥鹿神社からの帰り道に冨安姓を発見して、北部九州と三河のつながりをそちらのほうからたどることは出来ないか、ご近所の表札をチェックしてみましたが、村田や佐藤といった、あまり辿りにくい姓氏が多く、確証がありません。
田中姓がいくつかあり、田中の発祥地のひとつがみやま市旧瀬高町という話もあってこれがよい証拠になるかとも思ったのですが、これも多すぎて決定打にはなりそうにありません。
もう少し、近所の神社のフィールドワークが出来れば、性格がわかるような気もするのですが、なかなか難しいようです。
ただ、ひとつ手がかりになるのは、歩いて5分ほどのところに船山一号古墳という前方後円墳が存在しています。
このあたりを調べると、九州から展開していくようすが、もっとわかるかもしれません。
(2019.06.14訪問)