美風庵だより

幻の花 散りぬ一輪 冬日の中

庚申塔

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先日、知人の事務所に立ち寄りました。
いつものように、まず小倉に着いたら八坂神社で手をあわせ、神社の外にある高倉稲荷神社に向かいます。そのとき、楼門の横の祠に気づきました。庚申社です。

赤貧の自宅の周囲にも庚申塔はたくさんありました。庚申の日は、寝ると身体から虫が出ていって、閻魔大王にどのような悪事をはたらいたか報告にいくため、徹夜するものだという話があり、なんの虫?と思ったものです。

どうもこのテの習俗は、いろいろな文化と元のかたちがわからなくなるまで融合するきらいがあって、この猿田彦社もそうだと言えます。
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庚申信仰 - Wikipedia

(略)
やがて守庚申は、庚申待(こうしんまち)と名を変え、一般の夜待と同じように会食談義を行って徹宵する風習として伝わった。庚申待とは、“庚申祭”あるいは“庚申を守る”の訛ったものとか、当時流行していた“日待・月待”といった行事と同じく、夜明かしで神仏を祀ることから「待」といったのではないかと推測される(いにしえのカミ祀りは夜に行うものであった)。

庚申待が一般に広まったのがいつ頃かは不明だが、15世紀の後半になると、守庚申の際の勤行や功徳を説いた『庚申縁起』が僧侶の手で作られ、庚申信仰は仏教と結びついた。仏教と結びついた信仰では、諸仏が本尊視され始めることになり、行いを共にする「庚申講」が組織され、講の成果として「庚申塔」の前身にあたる「庚申板碑」が造立され出した。また「日吉(ひえ)山王信仰」とも習合することにより、室町時代の後期から建立が始まる「庚申(供養)塔」や「碑」には、「申待(さるまち)」と記したり、山王の神使である猿を描くものが著しくなる。

このように、本来の庚申信仰は、神仏習合の流れの中で、猿を共通項にした新たな信仰へと変化していることが伺われる。つまり、神なり仏なりを供養することで禍から逃れ、現世利益を得ようとするものである。やがては宮中でも、庚申の本尊を祀るという形へと変化が見られるようになった。

仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸時代は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期となった。大正時代以降は急速にその信仰が失われた。
(略)
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つまり、猿田彦にしてみれば猿と同一視された迷惑な風習だったわけで、祀ってもらってもあまりうれしくなかったことでしょう。

赤貧は中学くらいのころ、猿田彦を道案内の神様とならったのでこの扱いは疑問でしたが、こういう信仰のされかたもあったわけです。面白いというべきか、すごいというべきか……。