松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

朝倉市甘木恵比須町 西宮神社

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西宮神社というと兵庫県にある西宮神社が有名ですが、その元宮のひとつかもしれない西宮神社が、恵比須町にあります。

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新聞販売店と集会所にはさまれた路地の奥に鎮座しており、社殿もまるでウナギの寝床のようです。

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拝殿には、柏紋があります。柏紋は事代主の神紋です。

神社めぐりをしているとここの御祭神である事代主(エビスさま・少彦名=スクナヒコナ)の名前をよくみかけます。どんなに神社を知らないひとでも、エビスさまを知らないひとはまずいません。幼名の少彦名は、彼を拾い育てた大国主(オオナムチ=大己貴・道主貴)とのネームバリューの対比であると説明されていることがあり「有名か無名かなんて、そんな名前のつけかたはいくらなんでも可哀想」だと子どものころ感じていました。

この西宮神社に伝わる縁起を信じるなら、事代主は筑紫の夜須に3年住んでいます。あちこちをうろうろしたわりには3年も住んでいるわけで、じつは放浪した範囲はかなり狭かったのではないか?と簡単に想像できます。wikipediaにも幼名の「少彦名」を「須久那美迦微」と表記することがあるとあり、おそらく彼の本貫は、現在の春日市須玖です。

須玖岡本遺跡 文化遺産オンライン

須玖には古墳があります。事代主は那国の須玖を拠点とする王だったのでしょう。

事代主はタカミムスビの子とされていますが、ずっと行動をともにしたのは大国主です。大国主の国づくりの右腕として活躍したとされています。これも、もとはタカミムスビ(高木神社・高樹神社・大行事社)の勢力下にあり、やがて鞍替えして大国主の勢力下で重きをなすに至ったということでしょう。

そしてその関係が、(大国主の変名である)大黒さまの子どもがエビスさまという伝承のかたちで残ったのです。

大国主を祀る神社としては、この恵比須町から車で10分もかからないところに大己貴神社があります。日本最古の神社と称する奈良の大神神社よりもこちらのほうが古いと地元で言われている神社です。大己貴の大物ぶりを考えると、ここが本貫だと断言はしませんが、大己貴と少彦名がともに行動した名残だと言うことは可能でしょう。

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西の宮大神宮の由来 福岡県甘木市恵比須町

(略)
3.筑紫夜須の西の宮について
神代の昔、恵比須大神は、小舟にお乗りになって、東の海、南の海、北の海と漂わせ給い、はては西の海にお着きになりました。ここで、舟をお捨てになった大神は、筑紫路をさまよい、清浄な霊域をさがしていられますと夜須川(今の甘木川の古名)の辺りがお気に召され、ここを仮の宮居として、3年の年月をお過ごしになりました。ときに、この地方が"西の国"にあったので、この宮居を「西の宮」と呼ばれました。かつ又、この霊域が"筑紫の夜須にあったため、精しくは「筑紫夜須の西の宮大神宮」と号し、略して、「甘木西の宮大神宮」と申すようになりました。当「恵比須袋縁起秘聞」には「これぞ日の本(やまと)恵比須の始めなり・・・。」と添え書きがなされています。以上が当「西の宮恵比須宮」そもそもの由来であります。
4.摂津の西の宮について
その後、推古天皇の御代、聖徳太子は、恵比須大神をもって、特に商売繁盛の守護神と崇め給いました。更に、その後、福神として恵比須信仰が盛んとなり、摂津の国(大阪の西北部・兵庫県の南東部)に恵比須宮を創建ありし際、そのかみの筑紫路の故事にならい、社名も「西の大神宮」と称するようになりました。
5.甘木西の宮再興について
この様に由緒深き郷土の宮跡も、たびたびの水渦や風害にあって、荒廃しましたが、この甘木の里に筑紫路随一の市易と商買が繁盛するに及び「神代の昔、この地にお鎮まりになっていた西の宮の御霊験であろう。」とし、又この神様の霊夢を蒙る者もあって、ここに旧跡を相し、社殿の復興を見るに至りました。尚、町民で製蝋を業とする某氏が、摂津の西の宮から、"金幣"を勧請することもあり、その時の幸運な挿話も伝えられて、社運は益々あらたかになりました。
(略)
             昭和48年12月3日 恵比須町

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