美風庵だより

幻の花 散りぬ一輪 冬日の中

山口大神宮再訪

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24日、山口大神宮に行きました。あとで知人と話してわかったのですが、大学3年次以来でした。
同行者に聡明な御子息がいたからよかったものの、googleマップを眺めつつ、行きも帰りもキョロキョロしっぱなし。土地勘がない地域を歩くのは初めてではないはずなのに、まるで邪魔されているのではないかと勘繰りたくなるくらいでした。

26日、午後から小倉で私用でした。
最初は半日休暇をいただいて、博多駅から新幹線で小倉まで出て、昼から知人とごはんをいただきながら来年度以降について会話をする予定でした。
ところが、24日に帰宅して風呂に入ったあとじっくり考えれば考えるほど、どうも腑に落ちない点が多すぎます。
どうも、江戸時代以前に勅許をもって公式に神宮を勧請した神明社という点が、いろいろ引っかかっていたことのカギになりそうです。

もともと神宮は皇室の祖先祭祀の場として出発しています。しかし、長い歴史の中で皇室の財政がひっ迫したこともあり、運営の費用、とくに遷宮の費用が捻出できない期間もありました。1462年から約100年の間、遷宮は中断しています。
この時期に神宮の勧請を申し出たのが、天下人一歩手前だった大内義興でした。1520年に、天皇の勅許により神宮から神霊を勧請し高嶺大神宮として創建されます。勅許で神宮から勧請された神社はこれが初めてでした。
江戸時代、伊勢講が大流行するわけですが、そのきっかけのひとつがこれで、神宮が皇室の財布をあてにせず、大衆相手に稼ぐ道をみつけた重要な転換点でした。息を吹き返し1563年以降、神宮は式年遷宮を再開します。

皇室の祖神を祀る神社というブランドと、伊勢講の大流行で得た資金を背景に神宮は明治政府下において、他の神社を圧倒する存在となります。現在の神社本庁の前身である内務省神社局という役所まで作らせて、宗教政策を牛耳っていきます。「神宮は宗教を超えた存在」の時代です。
明治になり式年遷宮は国費により行われるようになります。1953年の遷宮までが国費造営です。現在は、神宮が6割負担で崇敬者負担が4割と聞いたことがあります。

いっけん、だから何だ?という話にみえるかもしれません。要は、神宮の歴史は(とくに明治以降は)政治権力とともにあったということです。ほかの神社よりも、はるかに権力のど真ん中にあったわけで、赤貧が神宮を嫌ういちばんの理由も、そこにあります。あれは宗教ではありません。

そんな赤貧もどういうわけか久山町猪野の皇大神宮にお参りし、そこでふと山口大神宮を思い出しました。
(ここは内宮だけだが、あそこは内宮も外宮もあったな)と、ふと思い出しただけだったのですが、思い出すと行きたくなりました。

結果として、知人の御子息と二人旅したわけです。

現地でいろいろ眺めていると、ここは赤貧の知るコテコテの物語でかためられた神宮とは別物だ、という気がしてきました。どうも勧請当時の姿をだいぶ残しているのではないかと思えるのです。

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赤貧が注目するのは、内宮と外宮に祀られている神様です。
excelで表にしてみました。
赤字は、現在の神宮でも祭神とされている神様です。

まず気になるのは、天照大神の息子が祭神に居ないこと。英彦山神宮に祀られているアメノオシホミミは、スサノオから引き取ってわが子としたはずですが、ここにはありません。なのに、息子の嫁(表のA2)は居ます。
嫁はタカミムスビ(高木神社などの祭神)の子です。よそから来た嫁と孫だけを大事にする……ちょっと想像しがたい状況です。
現在の神宮では荒魂(あらみたま)だけが祭神とされている別宮に、それぞれセオリツヒメ(女性。表のA7)とイブキドヌシ(男性。表のB7)が配祀されています。豊受大神トヨウケヒメ(表のB1)とされています。多賀宮に関しては、男女のペア、つまり夫婦が祀られていると推測できます。荒祭宮は女同士?……さすがにそれはどうでしょうか。天照大神が男ではないかと考えてしまいます。

さらに気になる点は、コトシロヌシ(表のA5)とタケミナカタ(表のB5)がお祀りされていることです。コトシロヌシは俗に「えびす様」と呼ばれて親しまれていますが、父親はオオクニヌシ、俗にいう大黒様であり、出雲大社の御祭神とされている神様です。
なんで内宮に?と一瞬思ってしまいますが、コトシロヌシの娘タタライスズヒメは神武天皇の嫁(お妃)とされています。意外と血縁は近いのです。

タケミナカタについては本居宣長という学者が、神宮の地を追われたイセツヒコと同一だと解釈しています。神宮が建っている地をもともと治めていた神であり、現在の信州に追われて、いまは諏訪大社に眠っているという解釈です。
しかし、追い出した相手とその嫁まで一緒に祀る必要があるでしょうか。現在の神宮の祭神には名前がありません。それが当然です。

ここで考えてみましょう。
神宮の第1回目の遷宮は、690年とされています。古事記が編纂されたのが712年。日本書紀が完成したのが720年。だいたいこのあたりで、ヤマト王権は確立したといえるでしょう。
ところがヤマト王権よりはるかにふるく、すでに280年以降に現在の中国では「魏志」が完成しています。卑弥呼論争の元ネタである「倭人伝」もこの中にあります。とうぜん、ヤマト王権を支える官僚も学者も、存在は知っていたでしょう。
隣の超大国でも名がとおるビッグネームです。これを無視するでしょうか。
以前から赤貧は、945年に成立した「旧唐書」の「東夷伝」について触れてきました。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%94%90%E6%9B%B8
旧唐書東夷伝の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。そして、宋代初頭の『太平御覧』にもそのまま二つの国である旨が引き継がれている。
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その後編纂された中国の歴史書新唐書」では初代の天御中主から32代つづいて、ウガヤフキアエズ神武天皇の父)までは筑紫城を統治していたとあります。
これらから漠然と推測できるのは、神武東征は脚色はあれど事実を含み、神武天皇が征服したのは倭国だったということです。皇室は簒奪者だとばれてしまいます。こんなもの学校で教えられません。

根拠薄弱な推理ですが、もしヤマト王権倭国)から天下を奪った日本が、卑弥呼の記述を利用して歴史と伝統をでっちあげたら?

本当の天照大神の業績のなかには、無理に女に仕立てたら書けないエピソードも多数あったはずです。
それをオオクニヌシの業績として創作したら?
例えば古事記では、ニニギ(表のB2)にはアメノホアカリという兄がいたという記述があります。播磨国風土記では、アメノホアカリオオクニヌシの子とされています。風土記古事記、どちらも当時の官僚や学者の精鋭がたずさわったはずです。なにが本当なのでしょうか?

伝統と歴史を粉飾するなら系図も長く引き直さなければなりません。創作した人物を挿入してみたり、同じ人物を複数に呼び分けてみたり、他の一族からエピソードを借りてきてみたりしていたら?義父ではなく、本当は夫であり、孫ではなく、子供だったら?

 

やはりこれは再度現地で実際に感じてみなければならないだろう。26日、早起きして午前中で再訪してみよう、という気になりました。
始発のバスで博多駅に出て、新幹線で新山口駅に出ました。ここから、防長交通のバスで直接、県庁前バス停まで向かいます。

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通り道に立つ「大神宮」の石碑をすぎ、五十鈴橋を渡ります。ふと右手をみると、前回は気づかなかったのですが五十鈴川におりる石段があり、手洗い場がこしらえられていました。

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社号標が二つ並んでいます。この多賀神社はあとから境内に移築されたものらしいのですが、これも重要なポイントに思えます。鳥居をすぎ、石段をあがっていきます。

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午の日ということもあり、まず高嶺稲荷神社にお参りしました。手水舎にある御神狐像は、狐というより「リサとガスパール」のようです。

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まずは、本殿よりさきに、前回まずふらりと立ち寄った末社のお稲荷さんにお参りします。本殿裏の巨石のうえに乗ったお地蔵さんは、これ以上、本殿側にずり落ちてこないようにと願をかけて置かれているのではないかという気がします。

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拝殿から参拝して気づくのは、本殿の位置を示すお目当てに御幣ではなく鏡が使用されていることです。これはこのあとにお参りした多賀神社でも同様です。

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石段をあがり、多賀神社にお参りします。前回も気になったのは、水の上に社殿があったのを移設したとわざわざ書いてある点です。実際の多賀大社は、琵琶湖からみて彦根よりもずっと山側にあります。水の上というと、どちらかといえば弁財天や宗像三神を想起させるもので、どちらも天照大神の子とされてきました。多賀神社もイザナギイザナミという天照大神の両親を祀る神社とされていますからこの解釈でもよいのですが、おそらく御祭神は違うと思います。

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楽殿を過ぎて、石段をあがると外宮と内宮が見えます。

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前回も感心したのは、本殿の前に2つの門をこしらえて可能な限り模している点です。社殿の下にある心御柱覆屋までつくられています。

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外宮の鰹木は9本。内宮の鰹木は10本です。ここまで大がかりな神明社は、いまのところ本家以外でお目にかかったことがありません。意地に感心するよりほかはなく、これまで維持してきた崇敬者の皆様に頭が下がる思いがしました。

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前回、磐座だと思った巨石は、災害のときに木にひっかかって止まり境内に落ちてこなかった石をお祀りしたものだそうです。擁壁が下にあるのでなにか中途半端だなと思いましたが、むかしからここにあるわけではないと知り、納得しました。

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この先に岩戸社があるそうです。
残念ですが赤貧は5分ほどで息切れしてしまい、引き返してきました。

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ちょうど境内に、社殿改修について告知した張り紙があり、赤貧もわずかばかりですが奉賛金を納めさせていただきました。ついでに神棚のお札もいただいてきました。
また御神札が増えましたね……。
 
この神社については、なぜ大内義興が勧請する気になったかというより、自分たちの館や城のふもとに作ろうとしたことのほうが重要な気がします。
純粋な崇敬の対象ではなく、皇室すら手元に置く気まんまんでつくった権力誇示の道具だと考えれば、内宮・外宮以外の祭礼・祭祀に必要なお膳立て(施設)が、これだけ大がかりな神明社のわりに最低限しかないのも理解できます。
もし大内氏が天下をとって将軍になっていれば、この神社ももっと違うものになっていたに違いありません。山口も道は立派だけど飯塚に毛が生えたような町ではなく、京都級の政令都市だったことでしょう。彼が貿易の拠点とした門司も博多も大都会。北九州市の中心が門司だった可能性もあるし、福岡市と呼ばず博多市だったかもしれません。

一気に胸のつかえがおり、アタマもすっきりしたのはよいのですが、石段の上り下りで足がひきつってしまいました。運動不足ですね。

できれば、数年くらいで再訪したいと思います。