松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

山口大神宮

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23日、久山町猪野の皇大神宮にお参りしたあと「今度は山口大神宮に行ってみたい」と大学の先輩にLINEを投稿したところ、本人ではなく中学生の御子息から「行きたい」と返事がありました。
方位術で北東が吉となる日を探すと、24日が該当します。午前中に旅行すると良いと返事をしたところ、家族との予定をキャンセルして同行するとの由。
最後に山口に行ったのは20年以上むかし。学生時代、津和野でお稲荷さんにお参りした帰りに今八幡宮と山口大神宮に行ってみたのが最後だったはずです。その前は、高校のときに祖父の弟といちど訪ねています。県都だけあって官庁街は立派だけれど、町自体は飯塚に毛が生えたような場所だと感じました。下関や、叔父が住んでいた徳山のほうがはるかに住みやすそうだと思ったものです。
あれ以来ですから、もう道すらわかりません。
しかし、さすがに一人同行者が居ると、行ってみようという気になります。
できる限り新幹線のような料金の高い交通機関は使いたくないのですが、小倉で待ち合わせとなるとどうしても使わざるを得ません。7時に甘木を出て、二日市駅から博多駅まで在来線に乗り、博多駅新山口駅経由山口駅行の切符を買い求めます。
のぞみ号の自由席で小倉駅まで出て、改札口真向いの待合室で待っているとiPhoneが鳴ります。
改札の近くまで出ると、ちょうど父親に連れられて中学生が入場してくるところでした。

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新山口駅までこだま号で移動し、山口線のホームにたどり着きました。目の前に古びたキハ40形気動車が2両編成で入ってきました。見渡すと日曜日のせいなのか、意外と若者が多いことに気づきます。あとで知るのですが、ほとんどが湯田温泉駅で下車しましたので、たぶんあれは大学生なのだと思います。
 
山口駅に着き、バス停がどこか見回していると、さっさとバス案内所の看板を見つけて中学生が移動します。
 
県庁前で下車し、見回すと「山口大神宮・多賀神社」と書かれた看板があったのでそちらのほうへ移動します。

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どうやらこれが五十鈴川のようです。前日、久山で見た五十鈴川や、本物の内宮を流れる五十鈴川のような清流らしさはありません。ほかの神様はどうか知りませんが、少なくとも神宮に関しては川で身体を清めてからお参りするのがほんとうだったはずで、これじゃな、と出鼻をくじかれた気分になります。

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社号標は「山口大神宮」と「多賀大社」の二つがあります。「多賀大社とは何か」と彼が訊きます。琵琶湖の近くにある天照大神のご両親を祀る神社だと返事をしながら、石段をあがっていきます。

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どこからお参りすればよいかもわからず、ぐるりと見回して気が向いたほうへ歩き出しました。すれ違った神職のかたが不思議そうな顔をしています。赤い鳥居をくぐると、お稲荷さんの祠が多数ならんでいました。境内にある高嶺稲荷の末社なのだと思います。ひとつひとつに手を合わせながら進んでいくと、お地蔵さんがありました。

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なぜここにお地蔵さんなのか?よくわからぬまま来た側と反対に進むと、境内社である高嶺稲荷神社の社殿の横をとおります。「なんでこんなにあけすけなのか」と質問され、本殿、幣殿、次の間、拝殿と伝統的な神社建築の様式を説明していきます。もともとは青空天井でお祀りをしていたのが、雨除けの屋根を設けるようになり、やがて、風をしのぐための壁もこしらえるようになった流れを知らないと、このオープンさは理解できません。

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ぐるりと背後を一周したあと、あらためて手水舎で手を洗い、高嶺稲荷神社にお参りします。手水舎の御神狐は口先がとがっていてアニメか漫画のような顔をしています。狐というよりリスのようです。

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お稲荷さんの次は、多賀神社にお参りします。これも側面に鳥居が連なっており、上にあがれるようになっています。坂を上がっていくと、多賀神社の神明造の本殿が見えるだけでなく、背後の壁がわかります。一部で「嘆きの壁形式」と呼ばれるもので、秦氏をはじめとする渡来人系の祭祀施設の特徴と主張する研究家が居ますが、本当のところはどうなのでしょうか。

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坂をあがりきると磐座がありました。よくわかりませんが熱心にお参りをされている男女が複数おられ、赤貧たちが手を合わせるのを待っていると、その一組から「お参りしていただいてありがとうございます」と声を掛けられました。神社の関係者なのでしょうか?じつはこの磐座のさきに岩戸社に向かう山道があったらしいのですが、赤貧たちはよく知らず、右手に向けて坂を下っていきます。

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置石といわれる畳2枚ほどの大きさの石があります。ここで豊作の祈願をするとのこと。ただの石にしては雰囲気が違います。重々しさではなく、妙な明るさがあります。

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置石の反対側に、外宮と多賀宮遷宮用地があります。久山の皇大神宮のように拝殿・幣殿を設けず、社殿のみを左右交互に改築するスタイルです。「荒魂とはなにか」と彼が訊きます。神様は一つだが4つの顔(愛・親・勇・智)を持つという教えが、復古神道にある話をまずしました。なかでも和魂(親)と荒魂(勇)が神の両面としてむかしから重視されてきたこと、ほんものの神宮でも、和魂と荒魂の両面から祀り上げていることを説明します。この両面が、感情的な二面性なのか、夫婦や兄弟といったペアを示すのかは、正直わからないことも話します。

ただ、神社好きなら重視すべきポイントは、荒魂を伊吹戸主命としていることです。つまりペアの片方が男。

豊受大神は「トヨウケビメ」とされています。女神と男神の対は夫婦では?

神宮でもこのあたりの説明はありません。神宮を勅許により公式に勧請した神社は、江戸時代までここ以外には存在しませんでした。古式が伝わっていると考えれば、これはこれで相当な謎なのですが……。

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一段上に内宮(皇大神宮)があります。こちらも荒祭宮があり、荒魂として瀬織津姫命が祀られています。女神のペアの相手はほんとうに女なのか?天照大神男神ではないのか?

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内宮と外宮を参拝して、石段をおりると神楽殿に出ます。考えてみれば神宮も一般人は神楽殿で祈祷していますから、このようにしてしまえば、久山の皇大神宮のように社殿用地を前後にする必要はありません。ほんものの神宮の内宮は、神楽殿はたしか社殿の横です。一直線ですらありません。

そう考えると、この山口大神宮の境内の配置はしっかりと考えられていることがわかります。別宮を参考とするか、内宮や外宮を可能な限り参考とするかの違いはあれど、これだけの規模の神明社をよく維持できるものだというのが偽らざるところです。

しょうじき、なにがどうなのか勝手がわからず、気の向くままにのぞいてみた感じの参拝となってしまいました。

もう少し頭を整理して、再度訪れてみたいと思います。