松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

個人主義化も極まれり。これからどうなるのか。

むかし、「女は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言った哲学者がいます。
この考えは真っ当で、育つ環境によって人間は集団(集団は、血縁の濃さや大きさで「家族」「社会」「国家」とも表現します)の一員となるのです。生まれついて人間になるわけでも、ましてや日本人になるわけでもありません。もし生まれてすぐ人間だったら、言葉を話し、お釣りをいくらもらえばよいか計算することができたりするでしょう。そのようなことができないのは、誰でも知っていることです。
あくまでも、家族という集団にまず属して、日本社会という集団で生きるための知恵を学びつつ、日本人になっていくのです。
逆に言えば、違う集団で生きることができれば、その子供には違う可能性が開けます。しかし大多数は、あらたな集団に飛び込むよりも、親や兄姉が所属する集団のなかで生きていきます。子供自身にそこまでものを考える能力はありませんから、親や兄姉が敢えてほかの集団で生きる道を子供に強制しないかぎり、違う集団には所属できないからです。親から産み捨てられたり、親が事故で死亡したりして誰かに拾われ、孤児院であれよその家であれ、どこかの集団の一員となることくらいしかできません。
このことは、子供が一人前ではない立派な証拠です。浮浪児となっても、浮浪児同士の集団があります。相手を脅してお金をせしめたりできるということは、そもそも言葉や身振りがつうじる集団に属している証拠でもあるのです。
躾けの本質は、自分が所属する集団のルールを学び、一人前の成員になること。その過程で叩くしか矯正する道がないとなれば、叩くしかありません。
そして、集団は一階層ではありません。家族、親類、町内会、職場、業界団体、労働組合、地公体、県、国と、いろいろな大きさの集団に、私たちは所属しています。
資本主義の進展で我々の所属する日本国に余裕が出来、さまざまな人間を受け入れる寛容性が生まれました。姥捨て山は昔話のなかの伝説となり、バリアフリーも着々と進展してきました。LGBTという言葉も認知度があがりました。叩いてでも矯正しなければ集団の成員にできない範囲が、狭まりつつあるのは事実です。
とはいえ、はたして最終手段を放棄してよいのでしょうか。
親のうっぷん晴らしに子供が死ぬまで手を出すのと、集団(社会)のオキテを叩き込むのとは、かなり意味合いがことなります。この議論は、どんな出来そこないでも集団(社会)に受け入れる覚悟があるか、家庭から集団(社会)のオキテを叩き込む機能を取り上げて義務教育に任せてしまうのか、この2点とセットで議論されなければ意味がありません。
言い出した政治家は、自分がなにをこねくり回そうとしているのか、わかっているのでしょうか。
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https://mainichi.jp/articles/20190217/k00/00m/040/001000c
 
(略)
親の体罰禁止へ法改正を検討 政府・与党 民法「懲戒権」削除も視野
 
児童虐待防止の観点からの体罰禁止はこれまでも議論されてきた。特に民法の懲戒権については、児童相談所(児相)の職員らに「しつけ」を理由にした虐待事案への介入をためらわせる一因にもなっていると指摘されてきた。
 だが、2010年の法制審での議論では「『しつけ』もできなくなると誤解される恐れがある」などの反対論が出た。このため、16年の児童虐待防止法改正では体罰禁止が議論になったが、踏み込めなかった。
(略)
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